ヨーロッパの薩摩焼


 ロシアでの運命的な出会いの感動に浸りながらモスクワ空港からパリ経由でロンドンへ向かった。しかし、ロシアは最後の最後まで油断のならない国で、出発に際しても朝八時五十分発の便が土壇場で二時間遅れとのアナウンス。一旦、ゲートを出て、トランジットカウンターでパリ乗り継ぎの確認をしながら、ふと画面に目をやると、二時間遅れのはずの便が今度は定刻出発のランプが点灯している。慌ててゲートに戻ると、もう次の便の為の行列が出来ている。またもや乗れずに・・・・・・とあの悪夢が甦り、今度は叫びながら強引に割り込みなんとかすべり込んだ。とにかく、アエロフロート航空は、「シートベルトを締めろ」とか「シートを元の位置に戻せ」とか「もうすぐ着きます」とか、何のアナウンスもない。ただ飛んでただ着くだけである。「これでいいのだ」と改めて感動したものだ。
 さて、ロンドンに到着し、早朝V & A(ビクトリア & アルバート)美術館へ。ここはアジアの美術品の収集では英国一であり、学芸員のルパート・フォークナー氏の奥様は日本人である。明治の日本工芸のコレクション及び研究に関しては、英国は日本を除く世界の中で最も進んでいるといっても良い。
 V & Aのコレクションは明治時代、日本を旅した英国のお金持ちのお土産品から始まり、各万国博覧会の出品作品、一九一〇年日英展を中心としたコレクションが中心である。さて、私の目的は何より沈家の作品であるが、まず目にとびこんできたのが十二代沈壽官の香爐である。
 この香爐は原画が我が家にあり、又、オーストラリア、メルボルンのビクトリア州立博物館にも所蔵されている作品である。上に乗っている獅子が特徴的なので、記憶に残っていた。次に鹿の置物である。この作品はなんと祖父十三代の作品であった。十二代の華やかな時代ばかりに目を向けていた私にとって十三代作品の登場は本当に嬉しいものであった。我が家が最も苦しかった時代に、当主を勤めた十三代の苦労は今想像してみても、余りある。
 名工十二代の息子として、実に豊かでそして優秀な少年期を過ごした十三代は、弱冠十七歳で父十二代と死別、職人の掌握にも苦労し、やがては親戚の保証のために、その財産の殆どを失ってしまった。さらに、時代は軍国主義へと傾斜し、朝鮮は武力によって併合された。すべての人民は天皇の赤子であり皇国の臣民であるという八紘一字の掛け声の時代の中で「沈」の姓で生きる事が何を意味するのか、あの時代を生きた方なら容易に想像がつく筈である。
 さて次は、 朴 寿勝(東郷寿勝)の香爐である。彼は、十二代沈壽官の信頼の厚かった後輩であり、十二代亡き後苗代川の陶業を支えた人物である。彼の長男茂徳は、太平洋戦争の開戦時と終戦時の外相を務めた悲劇の人である。
 次に大英博物館に行った。久しぶりに訪れたことのとてつもなく巨大な美術館は近年改装がほどこされ、開放的で明るい美術館へ変身していた。我々は、現在改装中の日本室の課長ティモシー・クラーク氏(写真中央)とセインズベリー日本芸術研究所の所長ニコル・クーリッジ・ルーマニエール氏に迎えられた。早速、ストックヤードへ。
 何とそこで私の目を奪ったのは、「芋喰小僧」であった。明治の文献の中で「芋喰小僧三捨個外二似寄之物少シ」(神戸 平野商店注文留)とか「芋喰小僧香箱、其外取合形種々  壱百個代金弐拾五銭 三拾銭位二而御願上申上候」(横浜 各務虎次郎注文留)「芋喰小僧香箱五拾個 但 壱個二付弐拾六銭ツゝ」(安松市朗右衛門)等かなり大量に生産されていたらしいが、国内ではまだ見た事がなかったものだ。にこやかに芋を頬張る子供の表情がとても可愛らしくて、百二十年ぶりの邂逅を喜んでいるように見えた。
 次に十二代作の水盤である。足の部分が鬼の面になっているが鬼の目が笑っているのである。の可愛さに惹かれて日本課長のティモシー・クラーク氏が十九歳の時に個人で買ったものらしい。 恐るべし十九歳である。それを就職した大英博物館にちゃっかり収蔵してくれたおかげで僕はこの作品と出会えたのである。
 ここの日本の作品は、各分野にしかも膨大に渡っており、例えば御覧の大量の茶入は今だ整理されておらず茶入ならば涎を垂らしそうな品がゴロゴロしている。まさに宝の山である。
 翌日は、オックスフォードのアシュモリアン美術館に出掛けた。ここでは、日本課主任のオリバー・ワトソン氏とクレア・ポラート女史に迎えられた。ここには小品が多くとりわけ薩摩焼の香合のコレクションは、秀逸である。ここでも十二代沈壽官作の香合数点と出会った。余談ながら、ここオックスフォードは大学の町であり多くのカレッジが集まっている。中でもクライストチャーチのカレッジの食堂はかの有名な「ハリー・ポッター」の映画でも紹介されている。
 さて、こうして見てみるとどの博物館にも日本から集められた薩摩焼が大量に保存されている。しかしながらそれらはいずれも当時のヨーロッパの人々に好まれる様に細密な筆で日本の美人画や武者絵が描かれている。
 しかし、それらは当時の日本工芸の世界で認められた物ではなく、あくまでも欧州輸出の為に奇をてらい且つ彼らに媚びる為に造られた物の様にも見える。全てのものがそうであるとは言わないが、残念ながらそう思わざるを得ない物が、実に大量にある事は紛れもない事実である。
 しかしその様な時代にあって、十二代沈壽官は全く別である。明治六年にオーストラリア・ウィーンの万博に六フィートの大花瓶一対を中心とする作品群を出品し絶賛を浴びた。その事が日本陶器輸出のきっかけになり、海外への道を開いたのである。
 彼は一切欧州好みの仕事はせず、断固として最後まで日本流を通している。他の有力な工房が薩摩風の生地に欧州好みの絵付けや細工を施し高い売上をつくるのを横目に泰然として薩摩の仕事を崩さないのである。その姿勢は後世に生きる我々から見ても実に見事である。『ぶれない』という事の大切さを教えてくれている。



十五代 沈壽官