琉球と薩摩


NHK大河ドラマ『篤姫』が好調である。鹿児島に生きる一人としてとても嬉しく思う。我々が歴史を学び、その積み上げられた事柄を研究し、現在とどの様に切り結んでいくのか、それが大切な事である。

今回は薩摩躍進の財政基盤を作り上げた琉球との関係について考えてみたい。
琉球王国が十四世紀〜十五世紀後期すでに、北は北京から南はジャワ島に至るまでの、実に広大な交易ルートを持っていた事をご存知だろうか。そのスケールの大きさに現代に生きる者として大変驚かされる。
琉球は何故これ程の交易圏を創りえたのだろうか。
考えられるのは明の鎖国政策「海禁」である。これは明国内での市場流通経済を抑制する目的と、朝貢制度による新しい東アジアの政治的安定を作り出すための政策であった。元追討作戦に馬や硫黄の提供で協力した琉球は明との友好関係に加え、類希なる操船技術を持っていた事で、朝貢の権利を得た。
中国を宗主国とするアジアの安定した政治的序の中で人口八万人の琉球王国は首里王府を頂点とする、さながら巨大海運商社として、その地理的優位性をいかんなく発揮したのである。
それに目をつけたのが朝鮮出征より戻った薩摩であった。一六〇九年薩摩の琉球侵攻が始まった。その結果、琉球王国は宗主国中国に対しては「国家」として、同時に薩摩に対しては「被支配地域」としての特殊な両属性を維持する事を強いられるようになる。それは大変困難な領国経営として現れ、その苦悶としわ寄せは近隣の宮古八重山地域への人頭税という形で及んだという。
しかしながら、琉球のもつその両属性は東アジア関係地域に対しての新たな緩衝地帯としての役割を果たし、その全域に新しい序をもたらす一助となった。自らの貿易戦略に薩摩を引きずり込んでいくようなしたたかさも見せる。
薩摩もその意図していた朝貢貿易の利を奪うという目論見はそう簡単には叶わなかったようである。船を用意し、漕ぎ手を雇い積荷を準備する。そしてそれらがどれ程中国で商われるかは未定であり、諸々の情勢によって常に不測の事態を招くからである。又、中国は薩摩の存在を熟知していた様で、属国「琉球」に武力侵攻した事に対して不快感を隠さない。ドラマ『篤姫』に見られる調所笑佐衛門の様な手練れの財務官が登場するまでは苦労の連続であった様である。

我が家に「漂民対話」という本が残されている。これは藩政時代薩摩が朝鮮国と密貿易を行っていた時の資料である。この貿易の中で薩摩は越中(現富山県)の売薬商『薩摩組』より「昆布」を調達し、代わりに朝鮮国より「人参」を仕入れていた様である。ヨード分を大量に含んだオホーツクの昆布は朝鮮・中国では大変貴重な不老不死の妙薬として珍重され、高麗人参は日本において滋養強壮の薬であった。その人参を薩摩人参の名で『薩摩組』が全国へと販売するのである。これは対民貿易に於いても同じように扱われた商品である。薩摩も琉球と付き合う中で海洋国家としての在り方を確立して行くのである。
それらの結果、商品流通ルートは拡大の一途を辿る。例えば薩摩が回漕する中国―琉球―薩摩という国際的な流通機構の中で、「昆布」、「越中売薬」という一見小さな存在を媒介した途端、琉球口貿易と松前口貿易の二つの貿易圏が一気につながり北は北海道から中国までの広大な領域圏が出現、成立するのである。このように表向き日本も朝鮮国も明国も国を閉ざしていながら現実には薩摩、奄美、琉球、明、朝鮮、対馬、長崎という環東シナ交易圏とオホーツク、松前、越中という環日本海交易圏が一つになり、その中において漂流民の送還態勢を含んだ様々な秩序がきちんと存在していたのである。

十五世紀から始まったヨーロッパ大航海時代はいよいよ最後の世界『アジア』へと至る。そして二月革命、クリミア戦争によるヨーロッパ・ナショナリズムの勃興は第一次ビルマ戦争、第二次ビルマ戦争、アヘン戦争を経て遂に北東アジアへと押し寄せて来たのである。
それに対して日本は明治維新を行い、近代西洋型国家への変身を誓う。その急激な国際情勢の変化の中で東シナ交易のキーマンであった琉球は荒海に翻弄される小舟の様に琉球国から沖縄藩、そして沖縄県へと変わっていくのである。自らの運命を自らで決める事も出来ずに。

琉球の風は今も私達を包んでくれる。
沖縄の持つ国際性、開放性、チャンプル文化とも言われる多様性は、その長い歴史の中で創られたものである。ここに暮らす人々が異なる人々の支配を受けながらも、未知なる文化を許し、その価値を認識し吸収したからこそである。まさに沖縄の言葉『向こう方しなう』の心映えである。そのたおやかな感性こそが沖縄の宝であり、日本の宝である。と石垣の海を見ながら思った。



十五代 沈壽官