明治の丹精・もの作りの執念


 九月に入って興味深い資料を読んだ。横浜開港資料館に所蔵されている明治十八年八月刊行の繭絲織物陶漆器共進会、陶器集談会の記事である。これは、明治十四年を頂点にして、その後激減してきた日本の輸出工芸品(扇子、織物、漆器、竹製品、陶磁器等)の状況を打開する為、全国から二十六名の陶業者が東京の厚生会館に集められた協議の議事録である。会議は明治十八年六月十日から三日間にわたり、農商務省の富田局長の司会で、各業界産地の現在から将来まで討議されている。この二十六名の中に、十二代沈壽官の名前も見れる。この資料の面白さは、何といってもプロセスを記している事による生々しさであり、これまで私が目にしてきた物とは大いに異なる。
 議題は大別して三つ。一つは、本業拡張の方策、二つ目は、同業者間にある弊害と緊急に矯正すべき事項、三つ目は製造上改良に関する事項である。全体百二十五頁に渡る物であるが、読了して知った事は改めてではあるが当時の生活環境の急激な変化である。同じ物を繰り返し生産していた江戸時代の暮らしから一変、刻々と移り変わる時好にあわせて売れる物を生み出さねば生き残れない傾向が、年毎に強くなり、数家族で営んでいた全国津々浦々の小規模産地が、次々と廃窯、転職していく。比較的大きな産地でも同様の傾向で、倒産会社の職工の流浪や、犯罪がおきてくる。更に、作られた流行品に対する模造品の生産が大量に登り、手の込んだ仕事を避ける傾向が生まれた。結果、物の値段は落ち、職工の給料も明治八年当時の三分の一まで下がった。更に、商人は職工に『上』の仕事を求めず、困窮職工から一山幾らで買い叩き、競って外国商人に投げ売るのである。値が安定しないため商人は信用を失う。又、それを知った職工は、自ら更なる安値で外国商人に売り込むが、本来、その道でない為に足下を見られ利を失っている。その行為が商人達を追い詰め、共到れとなるのである。商人は信用を失い、職工は仕事を失う。又、江戸時代の主従関係が貨幣経済により希薄になり、職工の引き抜きや、賃上を求めての争議も発生する。外国人も又、様々である。自国で貧困にあえぐ者が、当時未開の日本に数多く入り込んでおり、上流の社会で用いられる道具等について全く無知の外国人に盲従していた日本の職工も数多く居る。
 そもそも食器を生産して輸出しようにも、その用途を知らず、従って求められる寸法も、正確な形状すら知らないのである。相手国の国内では、はるかに進んだ機械により、一日数百枚という安定生産が実現している時代である。京都の有名な陶工・幹山傅七の言を用いると以下である。
「京都府雇ノ外国人が鉛筆ニテ示セシ図ニ基クト、盖シ外国人カ粗造品ノ形ヲ示シ 且ツ乳入等ノ大小ヲ示セシニ止マルナラン 其示セシ外国人ヲ問ヘハ 英人ニテ給料少ナキモノナルヨシ 故ニ下等ノ人ニテ上等社会ニ適用サル、品物ハ勿論時々流行品ノ変遷等ヲ知ラサルモノナルヘシ」(前掲書より)
 相手の土俵で戦おうとするには、あまりに非力である。薩摩でも十二代沈壽官が次の様に報告している。 「維新ノ始メ社トナリ 姑ク盛ナリシカ大イニ衰ヘヌ 又外国帰リノ某人外国ノ食器等ヲ教示シ画ハ椿菊ノ如キモノヲ第一トスルトノ言ニヨリ即チ之ヲ製セシニ其品時好ニ適セスシテ更ニ賣レス 其内ニ社ハ到ル」(前掲書より)
 この様な現状の中、全国同盟団結が求められ厳しい罰則を伴う規約によって生産から流通、販売のシステムをつくる事が決議された。同時に職人の引抜き防止策や年季についても決められた。又、外国製品の見本陳列所の建設、指導員養成の為の専門学校設立や自分の子弟以外にも技術を教える講習所の設立も政府に建白する事が決められ、注目すべき点として貧困職工の子弟である幼年職工(九才)に対する毎日二時間の夜学を雇主に義務付けている所である。
 政府の指導としては、各産地の特色を守る事、日本人の物づくりの伝統や精神を守る事を求める一方で、寸法、形状、図案等に於ては西欧の好みを取り入れ市場に参入出来る様にと矛盾した要求を出している。結局、水は低きに流れ、人は易きに流れるものである。産地の特性は極端に簡略化され、又象徴化され益々粗製乱造の道に陥ってしますのである。
 その実態は西欧に看破され日本製品は市場から消えていく。ジャポニズムの終焉である。
 どの国に於ても熟練の職工の丹精込めた仕事は国境を越へて人に満足を与えるものである。と同時にそれを支える確かな目を持った流通者と消費者の存在が不可決である。明治という新しい時代は、国際市場という未知の大海に船を漕ぎ出した事により、短時間の間に対応を迫られ木に竹を継ぐ様な折衷のくり返しの中で、江戸期、各地で丹念に仕上げられてきた、ささやかでデリケートなもの達が奔流の中へと失せてしまった時代でもあるのかもしれない。そして、我々は今でも、その未知の大海の中を、相手の土俵で戦いつづけている様な気がする。



十五代 沈壽官