ヨーロッパの薩摩焼 (続)


 ロンドンを後にした私は、今度はプラハ経由でイスタンブールへとむかった。
 プラハは二十年前に一度行った事がある。当時、チェコは東ヨーロッパ社会主義経済圏に属していたためか、美しいながらも町全体に生彩を欠いており、国立博物館にも、鳥のハクセイなどを展示している有様であった。
 人々はやたらとUSドルを求め、旅人の我々に水面下での交渉をしかけてきた。その折、ノビボルという町にボヘミアングラスの工場を訪ねた。ベネツィアなぞとはケタはずれの大きな炉の回りに屈強な男達がシャツ一枚で働いており、その暑さからか大ジョッキでビールを飲んでいたのを思い出す。仕事そのものはあまり感心しなかった記憶がある。
 さて、イスタンブールである。この町に来て何よりも思う事は『国とは?』『民族とは?』というテーマである。
 紀元前六世紀にアッシリア人が入植してできたこの都市は、やがてヒッタイト族の侵攻にあう。ヒッタイト族がアッシリア人を根絶やしにした訳ではなく、優劣がつけばそれで済むのであり、やがて両者は共存の道を探す。
 そこへ登場するのが、アラビア人の創ったペルシア帝国である。現在のイランに拠点を置くアラビア人はこの地域を呑み込み、ペルシャ帝国の版図に組み込んだ。しかし、これでは終わらない。はるか西方のマケドニアの若き王子、アレキサンダーが東方への進攻を開始する。
 これによりこの地は、ギリシャ帝国の一部となる。古来、戦争とは人さらい戦争であり、一人でも多くの労働力を傘下に収める事が、権力の意味でもあった。多くの人々は連行され王の下に集められる。しかし、栄光を極めたギリシャ帝国に襲いかかったのは、ジュリアス・シーザー率いるローマ帝国軍であった。またたく間にヨーロッパを席捲したローマ帝国はやがて東西二つに分れ、イスタンブールは、コンスタンティヌス帝により遷都された後、コンスタンチノーブルとして東ローマ帝国の首都となった。
 やがて、セルジューク・トルコ・次いでオスマン・トルコの支配を受けた後、大トルコ帝国は、白人キリスト教国連合の力により、小さく分割された。やがて、救国の父ケマル・ムスタファ・アタチュルク率いた現在のトルコ、それ以外にアルメニア・ウズベキスタン・カザフスタンetc。いくつもの小国へと分かれ現在に至っている。
 二万数千年の間、多くの英雄達が、この地を目指し、支配者が変わる毎に人々は混じり合ってきた。一口に『トルコ人』というが、それらは、果たして一つの民族といえるのだろうか。
 現在でも、クルド人・タタール人・チェチェン人等数多くの民族がいるが、どれ一つとしても純血種などではない。当然である。しかし人は『何人』という言葉を普通に用いて暮らしている。私達もそうだ。『日本人』『中国人』等々。しかし、よく考えてみると本当は、『日本国国民』『大韓民国国民』と『トルコ共和国国民』という呼び方の方がはるかにすっきりとする。
 例えば日本でも道行く人々の顔をみていると、実にあきない。『あー、この人ははるか草原の国から来た人だ』『この人は、南の常夏の島から来た人だろう』などと。
『何人』というのは、どうも人種を指している様でふに落ちない。そもそも私は『国』というものは行政の最大の単位にすぎないと考えている。それは、町や市、県とあまり変わらない。そして国境はその行政の定めたルールの限界線にすぎないと、同時に思う。
 人々はその単位に隷属するのではなく、人々が生きていきやすくするためにこしらえたのが、行政というシステムなのだ。それを政治家と役人に間接的に託している。だからその順序を見あやまってはならない。つまり住む人があって国があるのだ。しかし大昔は逆であった。王が国を治め、国があって人民がいたのである。しかし、現在でもともすると託された側の人々は巧みにその立場を逆転させる。そして彼らの地位と彼らのシステムを守る為に『国』という名のびょうぶの後ろにいる自分達に対して、忠誠を誓わせるのだ。
 さて、トルコにはトプカプ宮殿というこれまた巨大な博物館がある。しかし1999年のトルコ大地震で建物の一角がこわれたが、なんとそこは北東アジアの美術品を収めてあった部屋であった。
 結果的には箱を一つ一つ開けて見なければならないのだが、残念ながらそこまでの時間的余裕はなかった。何故なら総数日本・朝鮮・中国だけで一万二千点をこえる物があり、何がどこに入っているかわからないというのだ。全く、あきれはてた奴等である。
   しかし、常設で展示してあるものをいくつか紹介したいが、いづれも京都や横浜あるいは中国で輸出用につくられたものばかりで、ハッキリいって胸がわるくなる様な色づかいである。完全に日本人のセンスをはなれている。しかしどうもつかみどころがない国である。
 必ず薩摩の名品がいつか見つかる予感はある。



十五代 沈壽官