「白へのあこがれ」

2022年3月30日

小学校3年の頃、鹿児島の山形屋デパートで備前焼の展示会があった。父と訪れた私はその美しさに魅了された。
「緋襷(ひだすき)と呼ばれる赤い文様。まるで炎が土に映し出された様な、幼心にも実に幻想的であった。
父に「あればどうしたの?」と、尋ねたところ、「焼物に藁を巻いて焼くと、ああいった景色が出るんだ」と言われた。

家に帰ると風呂を沸かすのが私の仕事だったので、商品の白薩摩湯呑の生地をこっそり持ち出し、藁をグルグル巻いて風呂の焚き口に入れて凝視。姉を呼んで「凄いことになるから見てて」と。
ところが、目の前に現れた景色は巻きつけた藁が燃えるだけである。何度繰り返しても、同じであった。
これが私の最初の焼成実験であった。大失敗である。
本来なら生の土に藁を巻きつけて、ゆっくり焼き上げるらしい。化学的には藁に含まれる塩化カリウムと土の中の微量な鉄分が反応して発色するらしい。
父には報告しなかった。

2回目の感動は18歳の事だ。
イギリスの大富豪パーシバル・デビット氏の中国陶磁のコレクション(大英博物館所蔵)である。これも何故か父と出掛けた。この時見た「定窯」の白磁に衝撃を受けた。

中国には「南船北馬」という言葉があるが、定窯は北部にあるため森林が少なく、窯の燃料は石炭である。炎の短い酸化焼成による白い焼物である。
この定窯と触れた事が、私の「白の旅」の始まりとなった。
「定窯」と「白薩摩」、それは違う白である。
10世紀、宋の時代に創られた「定窯」の生地は卵の殻のように薄く、よくぞ釉薬が掛けられたな、と思うほどの厚みである。釉調は透明であるが、艶やかな光沢は控えめである。薄い口辺部には銀の覆輪を巻きつけ、王宮での毒殺検知の役割を果たす。外側には「涙」と呼ばれる釉垂れがあるのがお約束だ。
そして、片切り彫りと打ち込みによる陽刻以外、一切の加飾を施していない、実にプレーンな器である。しかし。その魅力は世界的である。
一方で「白薩摩」は、その素地の色が卵の殻のような象牙色であり、そこに滑らかな透明釉が掛けられる。そこまでは定窯に近いと言える。ただ釉中には微細な蝉の羽の様な貫入が入り外光を乱反射させ、生地に深みを与えてくれる。時には鏡のような滑らかさゆえ「鏡面釉」とも呼ばれ、そばにある物を映し出す程の濡れたような光沢を示すものもある。

結果。互いの「白」は異なるものの、その魅力は互いに譲らない。勿論、私は後者を追いかける者である。

「白」と「透明」。この掴み所のない二つの色の組み合わせは無限に存在する。目指すものは、これまで幾度も私の手のひらからすり抜けて行った。陽炎を追い続ける旅であり。そしてそれらは薩摩の大地から取り出されなければならない。

太古の火災流に覆われた広大なシラス台地。露頭調査が叶わない為、シラス台地の外側で探索するしかない。
そうして初代達が発見したのが、現在の指宿市山川地区から取れる白い粘土鉱物。学名「カオリナイト」である。これは花崗岩が気の遠くなる程の時を経て、マグマの力による熱水の作用を受け続けることにより風化して生まれた白色粘土である。
この粘土は採掘の後、25の工程を経て、漸くロクロの天板に乗せられる。

理想の出来上がりは未だだ。
これを創り上げられたら、一緒に風呂に入るつもりだ。

果たして、今年こそこの夢を叶えられるだろうか、、、。

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「絶対」と「相対」

2021年12月28日

今年の12月23日は、上皇陛下の88歳のお誕生日である。
ハゼの研究で知られる上皇陛下は上皇の地位に就かれてからも、
2種類の新種のハゼを発見しておられる。
本当に頭が下がる思いである。

上皇陛下の米寿に心からの祝福を捧げたい。

十四代が赤坂御所で開かれた園遊会に招待された事がある。
大韓民国名誉総領事として旭日小綬章を頂いた事から、お声がけ頂いた。
不肖、私は護衛というか、お供というか、御家人として付き従うことを許された。

会場入り口で受付を済ますと、宮内庁職員が「沈先生、今日は陛下のお声掛けがあります。
これからご案内致します」と言われた。

驚いたのは十四代である。
何の前触れもなく、というか、そうゆう決まりになっているらしい。
前もって伝えると、緊張のあまり、一睡も出来ない人も居るだろう。(十四代はどうだろうか?)

庭園の一番奥に案内された。
宇宙飛行士の野口さん、漫画家の里中満智子さん、他10名くらいのメンバーに
両陛下、並びに皇太子殿下、秋篠宮ご夫妻など皇族の方々から直接御言葉を掛けられるのだ。

会場にはあちこちにテントが張られ、羊や鳥を焼いたり(宗教上問題がない)、スイーツを振る舞っている。

雨の中、宮内庁楽団が「君が代」の吹奏を始めた。皇族の方々が御所の敷地に入られた合図だ。

当日は雨が降る生憎の天気だったので、先触れの職員が
「陛下も傘をさしておられます。皆様も傘をさされて下さい」とアナウンス。
すると父の隣におられた漫画家の里中満智子先生が
「私、陛下の前で傘なんかさせないわ」呟いた。
すると、十四代も「ワシもだ」と。
結局、僕が2人の傘を後ろから差し掛ける事になった。

やがて陛下が来られ、侍従が「十四代沈壽官様です」と言うと
陛下が、「14年前の宮中晩餐会以来ですね」と直ぐに話された。驚いた。
すると続けて「金大中大統領の時でしたね」と言われた。
父は「は!」と答え、頭を下げる。

私は傘を両手で差しているため、頭をちょこんと下げた。
ただ、その穏やかな語り口と、和かな笑顔に最大の緊張と尊厳を感じた。

すると、美智子皇后様が「あんなに細かいお仕事、大変でしょう」と言わ
れた。
その暖かいお言葉を耳にした僕は陛下の尊厳、美智子様の優しさで、
いきなり泣き出してしまった。滂沱の涙が止まらない。
極度に張り詰めた気持ちに、温かい御湯を掛けてもらった様な。
この方々を御護りしなければならない!と役割でもないのに心に誓った。
もう、雨と涙でびしょ濡れである。

その時、感じたのは「この方々はもっとお金が欲しい、とか、
もっと偉くなりたい、とか、もっと美味いものを食べたいなぞと
いった感情はお持ちにならないだろう」という事だった。

誰とも競う事なく、ひたすら国民に寄り添い、国民の為に祈りを
捧げる最高の神官なのだ。これを「絶対の存在」と呼ぶのだろう。

陛下に比べたら合衆国大統領も、中国共産党の国家首席も、
皆んな権力闘争の勝利者に過ぎない。
つまり政敵を倒してきた「相対の存在」なのだ。

「相対」が「絶対」と向き合った時、「相対」はどうしたら良いの
か分からなくなるのだ。

この「絶対」の存在を維持する日本という国の面白さに、
ずぶ濡れになりながら、しみじみと感じ入ったものだ。

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「革新の誕生」とは

2021年10月26日

 先日、太宰府の九州国立博物館で「皇室の名宝」展が開催された。
この企画展は宮内庁の三の丸尚蔵館に館蔵されている品々(即ち天皇家が宮殿内に装飾品として飾ってあった物)を、初めて九州の地で紹介するという画期的な展示会だ。
 その会場に十二代沈壽官製の香炉一点、花瓶一対が展示され注目を浴びた。竹籠の陽刻で覆われた全体に、立体的な菊花を隙間なく貼り付けてある。花と花を繋ぐ立体的な茎と葉、その中を舞う蝶。更にそれらに施された彩色。
十二代の従来の作例と比較して、装飾過多と呼びたくなる出来栄えである。何故ならそれまでの作品は豪華であっても、絵付けの間に間合いを取り、白薩摩独特の温もりのある生地と釉薬の微細な貫入を見せる事を忘れないからだ。
明治天皇陛下にお納めする一世一代の作品である事に加えて、外国の賓客の視線を意識したとも思われる。
 そして、その作品は「命の躍動」に溢れている。
その作品を見ながら、私は同時に今春、東京国立博物館で開催された「桃山」展を思い出した。
日本の文化を代表する当時としては極めて前衛的な桃山文化の展示会であった。
 「桃山期」とは大坂城落城迄を指す戦国時代である。意外である。
 何故なら、それまで私は文化とは、太平の爛熟期に栄えるものだ、という固定観念に支配されていたからだ。
 清の時代、朱炎という人の「陶説」の中に「陶に拠って政を観る。政に拠って陶を観る」とある。つまり焼物は時代の産物である、という事だ。
 改めて桃山を振り返ると、実際には、戦国時代と呼ばれる「乱世」に、革新的な美が生まれているという事が分かる。
 「乱世」とは従来の秩序が破壊され、新しい支配者が新しい概念を打ち出す世である。
 そこは同時に血で血を洗う凄惨な下克上の世界であり、多くの「死」が覆う現実の中で、それまで無かった新しい「生」の概念が誕生しているという事だ。
そこに大航海時代の南蛮文化が加わった。

 「破壊」と「創造」、「死」と「生」この対立しながら共存する二つの概念を海外の文化がつなぎ、新しい革新的な試みを織り成していく。
 其れはアートと呼ぶに相応しいものかもしれないし、或いは新しい支配者の為に供された、デザインであるのかもしれない。

 十二代の明治天皇にお納めした物は、宮内省から指定された形状も、サイズも、価格も、つまり何のリクエストも無い筈である。
 彼が自ら考え、工夫を凝らし、決して観ることの出来ない空間の中に収まる事を想像しながら、製作したのであろう。
 それは、もはやアートと呼べるものである。

明治という乱世は、やはり新しい美の概念を生み出したのだ。

乱世は従来通りではない。つまり、生きづらいものである事は間違いないが、既成の枠組みが弱まり、新しい概念が生まれる時代でもあるということだろう。

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名誉総領事就任

2021年6月28日

 去る4月6日、我が家の表座敷において駐鹿児島大韓民国名誉総領事館の開館式が行われました。
 一昨年、父が他界し名誉総領事館は閉館していました。
 父の生前から、「十五代も総領事になるんでしょう?」と幾度か尋ねられましたが、その都度「いや、これは世襲ではないので」とお答えしていました。
 この度、韓国政府から新たに日本政府に推薦があり2月9日に日本政府の許可がおり、その日が私の正式な就任となりました。

 開館式は駐福岡大韓民国総領事はじめ、塩田鹿児島県知事、県議会議長など、様々な要人の列席を賜り、無事に終えることが出来ました。
 政治的にはトラブルの絶えない両国でありますが、その様な時期に拝命したのも何かの意味があるのかもしれないと、自分に言い聞かせています。

 私の持論として「G(政府)to G(政府)」は面子で交流を断絶する事がままあるし、「C(企業)to C(企業)」は利益が無ければ交流は消えます。しかし「P(人) to P(人)」の交流は面子や利益で絶える事はない。政府同士が断絶しても、人と人が繋がっている、そこに無数の細い友情というパイプがある事が大切なのだ、と考えています。
 権力とメディアが結託すると国民の意識操作は簡単にできるのです。更にはSNSを通じて、出処不明の怪情報が一人歩き。そんな環境の中で両国の国民は 一見、極めて偏狭になった様に思えます。
 その様な移ろいやすい景色を目で追い続けると。大切な「芯」を見失ってしまうものです。

 父十四代の言葉に「回るロクロの動かぬ芯」というものがあります。
 私が、鹿児島の中学を出て東京の高校に進学する時、父に言われた言葉です。
 動くものに幻惑されると、自分も振り回されてしまう。どんなに周囲が高速で回転してもその芯は決して動く事はない。そこに身を置くべきだ、という教えでした。

 政治的には近さ故もあり、面子もありでなかなか先に進まない両政府ですが、私がこの時にこの任命を受けた大きな理由は、私が現在務めている「高円宮日韓文化交流基金」の選考委員としての経験でした。これは両国の相互交流を顕彰するもので、文化交流、学生交流、スポーツ交流など実に様々な交流が存在します。その中でも何より心を打たれたのは障害者交流でした。
 日本の盲学校と韓国の盲学校の交流、脳性麻痺の人々同士の交流、ろうあ者の交流、車椅子の方々の交流。
 これらは健常者の支えがないと不可能であり又、それらを支えるスポンサーが必ず必要なのです。
 そして、これらの交流は30年以上続けられており、日韓の政治的軋轢の中でも決して途切れる事はありませんでした。

 声高に相手を罵倒する事を「愛国」だと勘違いしている人々の知らないところで、社会的弱者と言われる方々が本当に静かで、ささやかな真の魂の交流を続けておられます。そこには互いに敬いの心があります。そして、それを静かに支えている人々がどれほど両国に数多くおられることか、、、

 私が今回、この名誉総領事の任を拝命した理由は、この人達の存在なのです。
 果たして何が出来るが分かりませんが、出来うる限りの協力を行なって行きたいと考えています。
 何卒、宜しくお願い申し上げます。

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仕組み

2021年3月24日

 先日(令和3年1月14日)、霞が関の文化庁長官室で「文化庁長官感謝状」を拝受した。
 初めて訪れる霞が関官庁街に田舎者は大いに道に迷い、ようやくギリギリに文化庁に辿り着いた。

 感謝状の内容は「陶芸を通した国際交流に於いて我が国の文化を世界に広めた」という内容の宮田文化庁長官からの感謝状だった。私以外には、歌手の安田祥子さん(由紀さおりさんの姉)、日本画の藤森先生、彫刻家の一色先生だった。
 文化庁長官室に入り感謝状を受け取った後、宮田文化庁長官の制作によるドラを打ち鳴らす。宮田文化庁長官は金属工芸家である。これは、どの方にもやってもらう儀式だそうだ。(さすが民間人だ、、)

 僕は、これまで日展や日本工芸会という既存の組織に属さず活動してきた。
 その理由は、父十四代が業界団体のピラミッドの中で生きる事を拒否していたからだ。
 「第三者が評価するなら、いざ知らず。同業者が評価すると、そこには必ず様々な人間関係や情実が生まれる。更にその中で組織遊泳術に巧みな者や声の大きい者がピラミッドの上部を支配して行く。」という理由だった。
 必ずしもそれだけであったかは知る由も無いが、日本工芸会に所属していないと、無形文化財(人間国宝)にはなれないし、同様に日展に所属していないと芸術院会員にはなれない事は業界の暗黙の了解になっている。

 だから、知り合いに「沈さんはいつ人間国宝になるの?」と無邪気に聞かれるが「一生なれません!でも、天然記念物にはなれるかもよ!」と、ギャグで応えている。

 そんな父の元で育った私は、父ほどの感情は無かったが、何となく父の言い分も理解はできたし、その父の下で私がいずれかの団体に所属する事ははばかられた。従って、色々な巨匠の先生方からお声がけ頂いたが、結果的に何処の組織にも依らずにこれまでやってきた。
 (因みに私が会長を務めている鹿児島陶芸家協会は任意団体であり、県や国から定期的に経済的な支援を受けているわけでは無い。)

 以前、イスタンブールのトプカピ宮殿美術館アジア部の学芸員が薩摩焼の調査に来た時、その話になり「僕はフリーなのですよ」と話したら「いえ、貴方はインディペンデント(独立)です!」と言われたことがある。何故か父を褒めてもらった様で嬉しかった記憶がある。

 父が晩年、国から「旭日小受章」を頂いた時、当時の県知事だった伊藤祐一郎氏から言われた言葉がある。
 「今回の受章は絶対的な価値観によるものです。本来賞勲と言うのは国の体制に尽くした人に贈られるものです。つまり官吏や教員、業界団体から推薦された方に与えられる相対的なものなのです。
 お父上の今回の受章はそれとは異なる絶対的な価値観の中での受章ですから、価値あるものなのです」と言われた。
 有難い言葉だった。

 今回の宮田文化庁長官からの感謝状の拝受に対して、私の母校早稲田大学の後輩達は「これまで独立の道を歩いて来た十五代がついに官の軍門に下ったか。」と冷やかされた。
 しかし、僕は「賞金も勲章も無い、ただ、紙だけだよ。同じ賞なら「菊花賞」とか「皐月賞」の方が賞金はあるね。」と笑う。

 世の中には「仕組み」というものがある。
 出来た当初、それぞれの組織は高い理想を叶える為に結成された組織であったはずだが、長い時間の経過の中で前例、慣習というものに少しずつ支配されていく。
 やがて、そうなってしまった仕組みは時を経て益々、堅牢になって行く。
 そうなると、簡単に解体なぞ到底出来ない鉄の組織になるのだ。

 その中で今回、宮田文化庁長官から頂いた感謝状は在野に住む者からも選ぶ事はあります、という「仕組み」に対しての国からの一石ではなかったかと、ふと思った。

 感謝状は未だ輪ゴムで巻かれたまま、僕の本棚に置かれたままである。
 驕る事なく、前を向いてやるべき事をゆっくりと進めて行きたい。

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