八月の窯

2020年10月21日

 今年の夏は近年の傾向通り、やはり猛暑だった。

 そんな中、登り窯を焚く事になった。この猛暑の中、六十一歳の誕生日(八月二十八日)に千二百五十度を越す熱を煉瓦越しに受け続けながら、二日間にわたり薪を投入。更に全体をコントロールしながら、焚き上げる事が可能なのか?誕生日が命日になるのでは?
 若い時なら何とか乗り越えられる気がしていたが・・・。
 しかし、頂いた仕事。頑張らねばならない。正直、不安と恐れに満ちていた。

 僕の窯の師匠が、六十歳で窯を引退した時の言葉を思い出した。
 「一輝、六十になったら、窯は無理じゃ」

 窯が始まった。
 お客様の色々な質問を受けながら、窯は進んでいく。九百度迄なら普通に上がる。そこからが駆け引きだ。 窯は薪を嫌がりだし、なだめすかしながら、じわじわと温度を上げていく。千度を超える辺りから「カケ」と呼ばれる薪の大量投入が始まる。窯は黒煙を上げ、窯の窓の隙間からは赤黒い炎が轟音と共に吹き出す。炉圧は上がり、温度は下がる。やがて酸化焼成に転ずるや、反転、温度は上がり出す。この繰り返しだ。
 しかし、何もなければ千二百度迄は大丈夫。
 窯が熟成期に入る千二百度からが、本当の勝負だ。
 ところが、その千二百度を超えて、千二百三十度に差し掛かった頃、
 温度の上昇が止まった。炉圧が上がっている事は、窯の窓から吹き出す炎の激しさから分かる。
 そういえば少し前に窯の中から「ガサッ」という柔らかい音が聞こえた。
 「何かが起きている」不安が胸をよぎりはじめる。更に投入する薪が何かに当たり、入って行かない。燃えかす(オキ)が溜まってしまっているのか?もしかして何処かが崩れたか?
 後方の窯の全ての窓を開けて圧力を抜きながら、投入する薪の数を減らした。膠着状況が一時間程続いた。 温度の代わりに時間を使う事でカロリーを確保する作戦に変更だ。
 応急処置が効いたのか、温度は一時的に千二百七十度迄上昇。このまま、行けるのか?目標の温度帯は千二百六十〜千二百八十度である。
 この中に静に収めたい。
 戦闘機が洋上の空母に着艦する様な感覚だ。(戦闘機は操縦した事はないが、、、)
 不安が交錯する中、窯の火溝をじっと見つめていた息子が「あれは何だろう?」と呟く。
 「?」、、、「少し待て、温度を下げて炎を落とす!」と大声で指示を出す。
 温度は千百八十度まで下がり、真っ白に輝いていた炎が消え、中の様子がうっすらと透き通って浮かび上がってくる。
 前列の三ヶ所が、崩れている。 投入した薪が、台を支えていた足を弾き飛ばし、それが原因で崩れていた。
 その時、頭をよぎったのは中学生の頃の記憶だ。
 父と窯を焚いていた時、やはり同じ様な事が起きた。
 その時、父は火を裏に回そうとしたり、様々な苦心と試みを繰り返した。(かえってそれが状況を悪化させた)
 やがて、「もう良い」と言い窯焚きを終えた。三日後、窯を開けた時の景色は、中学生の僕でも衝撃を受けた程であった。
 火勢で窯の炉壁は焼け落ち、作品は散乱していた。惨状だった。
 千数百点の品物のうち、取れたのはほんのムシロ一枚分だけであった。

 誰も声をかけられない。
 庭に並べられた僅かな生き残り達を、父が黙って縁側から見つめていた姿は忘れなれない。
 僕が薪の投入を減らし、火勢を強めずに温度を維持しながら時間を掛ける判断が出来たのは、その時の父の窯との格闘が頭をよぎったからだ。

 窯出しの日、息子が猛烈な熱さの炉内にジリジリと入っていった。
 取り出される焼き物は未だ熱く、軍手を二枚重ねていなければ、とても持てない程だ。
 崩れた場所は仕方がない。
 それ以外は?
 「お父さん!いいです!」窯の中から息子の弾んだ声が聞こえた。
 ホッと胸を撫で下ろした。
 窯焚きの日は、小雨が降っていた。「親父が冷やしてくれてるな」と思っていた。
 そして、父と同じ事態にみまわれた僕を救ってくれたのは、あの時の父の憔悴した姿であった。

 「人は知識の伝承は出来るが、経験の伝承は出来ない」父の言葉ではあったが、しかし、今回だけはあの時の記憶に救われた。

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