「祖父 十三代 沈 壽官について想うこと」

2020年6月25日

 すっかりコロナ一色に塗りつぶされた世界、経験はありませんが、中世ヨーロッパを襲った黒死病(ペスト)の恐怖を想像します。
 さぞかし、恐ろしかっただろう。
 現代、世界の全ては当時より遥かに緊密に繋がっており、我々の静かな美山の里にもコロナ禍の波は押し寄せています。
 政府の「緊急事態宣言」以降、訪れるお客様も居なくなり、受注の電話も無くなりました。
 こんなにも変わるものかと、本当に驚き、寂しく感じました。
 我々の仕事こそ、「不要不急」なのかなぁ。しみじみと考えました。
 空にはウグイスの澄み切った鳴き声に代わり、ホトトギスの鳴き声が響いています。

 「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」
 江戸時代の山口素堂の作ですね。

 目には見えない、しかし、確実に存在する正体不明のものに、ただ怯える事しか出来なく、見えないこれからの不安に、押しつぶされそうになっているのは私だけではないでしょう。
 毎日、先祖の御霊に手を合わせ、昔の写真を眺めていると、色々な事を思います。
 十二代の時には、幕末の激動の末、明治維新、廃藩置県、戊辰戦争、西南戦争と驚天動地の大事件が連続しました。そんな中、藩営工場の主取であった彼は明治8年に「玉光山陶器製造場」を開業しました。
 その後の大活躍は皆さまご存知の通りです。激変する時代の荒波に揉まれながらも、果敢に海外へ雄飛して行きました。素晴らしいスタッフに恵まれ、栄光に包まれた人生でした。
 今、私が思うのは、十二代の長男であった十三代沈壽官(正彦)です。
 彼は17歳の時に父十二代と死別しています。五人の幼い妹を抱えていました。
 薩摩焼の総帥、十二代沈壽官亡き後、工房の熟練の職人の殆どは、若き当主の元から徐々に離れ、鹿児島市内の窯元へと移転して行きました。
 17歳の青年の胸中はどれほどのものだったのでしょう。
 鹿児島一中を特待生で卒業し、七高から京都大学に進んでいた秀才であった、と聞いています。
 その後、高等文官試験(現在の国家公務員上級試験)に受かり、そのまま内務省に入れば、やがては鹿児島県知事になれたかもしれない、と、父は言っていましたが、そこは「沈」の姓では難しい時代でありました。(終戦時の外務大臣である東郷茂徳も私達の村の方ですが、彼は「朴」という姓を「東郷」に変えています。)
 十三代は全てを諦めて、故郷に戻って来たのです。学者肌の方だった様です。
 それに加えて亡き父親への思慕の想いが強かったのかも知れません。
 父十二代の燦めくような繁栄の時代を知る彼にしてみると、一気に暗転、しかも日本は徐々に戦争の時代へと突き進んで行きました。
 焦り、不安、孤独、朝鮮人差別の中、次々と先代の残した資産は消えていきました。
 それでも五人の妹を嫁がせました。
 自分も五人の子供を設けましたが、家業は衰退して行くのみ。戦局は益々悪化して、国民にとって薩摩焼など何の役にも立たない時代になりました。

 事実、我が家でも軍の命令で焼き物製の手榴弾を作らされていました。(床下にあった多くの手榴弾は、一つ残らず父十四代が破棄しました)

 最後に残ったのは、1人のロクロ職人と、時折来てくれる絵付けの先生だけでした。
 それでも十三代は家業を閉じる事はありませんでした。苗代川陶器組合長を40年間勤め、更に、当時の下伊集院村の村会議長も務めていた。(沈正彦の名前で)妻のハマノが農業に精を出していました。コメを作り、芋を植え、鶏を飼い、それ以外は一人の職人といつも仕事場にいました。お金がない時は、伝来の名品を切り売りしながら生計を立てていたのです。

 私が幼い頃の暮らしです。

 何故か十三代はそんな時でも超然としていました。今思うとあの状況下で不思議な程の誇りある姿でした。

「不要不急」

 重要ではなく、急ぎでもない事。と定義されます。
 しかし、文化とは不要なものでしょうか?
 旧約聖書のマタイ福音書には「人はパンのみにては生くる者にあらず」と有ります。
 この言葉は、人が生きる上で精神的な拠り所が必要なのだと伝えています。勿論、それは宗教なのかもしれませんが、音楽、演劇、映画、文学、絵画、彫刻、陶芸、様々な物に心を打たれ、感動する事こそが生きる大切な糧となります。
 「不急」ではあるかも知れませんが、決して「不要」ではないのです。

 いつか、皆様がまた、美山の里に足を運んでいただける日の来ることを、心から願っています。

 歴代が守り抜いて来た薩摩大切な伝統。それは遥かな昔、玄界灘の風濤を超えて朝鮮から伝えられたものです。
 私にはそれを守る責任があるのです。

 また、皆様に親しくお目にかかれる日の来ることを心待ちにしています。

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