21世紀日韓パートナーシップ宣言に寄せて

2018年10月29日

今年は小渕恵三総理と金大中大統領が1998年に交わした「21世紀日韓パートナーシップ宣言」から20年目に当たる。そして、宣言後初めて行われた日韓交流事業であった「薩摩焼 400年祭」も同じく20年目となる。 
 
薩摩焼400年祭当時、私はまだ15代ではなく、部屋住みのロクロ師に過ぎなかった。
ただ、この400年の区切りを祝う事は亡き13代の遺言であった事から、父は全力でその成功に力を尽くした。
父の持つ政治力、人的ネットワーク、全てを注いだ。願掛けとして、大好きな焼酎も断ち、町の全面的協力と相まって、小さな町の大きな祭りは大成功に終わった。
その祭りを終えて、父は私に家督を譲ったのだ。
沈家初めての生前襲名だった。
私は39歳だった。 
 
私達、若い世代はそのイベントのスタートについて議論を重ね、一つの結論に至る。
それは韓国から火を運ぶ事だった。
初代達が朝鮮から、土を運び、釉薬を運び、又、自らも捕虜となり日本で初めて作った焼き物。
全て朝鮮の素材と技術であり、日本のものはそれを焼く「火」ばかりであった。
この事から、最初の焼き物は「火計り茶碗」と呼ばれている。
そこで、今度は日本の陶土、日本の釉薬、日本の技で作った焼き物を韓国の火で焼こう!その火を貰いに行こう!というわけで、私が訪韓の使者に選ばれた。 
 
紆余曲折を経て、我々は火を運ぶ事になる。
南原の聖なる山「咬龍山」から採火し、それを陶製の火炉に入れ、儒教の儀式をいくつも重ねて漸く日本、鹿児島へ。
南原を出るときは市民達が本当に数多く見送ってくれた。中には自宅の台所の火を持って来てくれたおばさんが、これも持って行ってと、火炉にいれてくれた。
とにかく一大イベントだった。
陸路は釜山まで白バイの先導で走る。信号は全て青。休憩場所には多くの旗が並び、そこの市民達が鐘や太鼓で威勢を挙げる。
ようやく釜山に着くと、釜山海洋大学の白い詰襟の学生服を着たエリート達が整列して迎えてくれた。そして彼等の敬礼の中、練習船「ハンナラ号」に火炉を乗せて鹿児島迄、運んでくれたのだ。フィリピンに練習航海するコースを日本周りにしてくれたのだという。
玄界灘を軍船で渡るのは大変だった。縦に横に大揺れに揺れた。
あまりの揺れに私は動揺して、船長に大丈夫かと尋ねたら「今、済州島と五島の福江島の間にいて、一番揺れるところです。又、高気圧が張り出している為、いつもより激しい」と言われた。 
 
採火の様子から一部始終をテレビ各社が連日放送しているため、鹿児島でも刻々と聖なる火の到着が待たれる仕掛けだ。 
 
玄界灘の荒海を越えて、川内港に入港した。役所の知り合いが一人、桟橋で僕らを待っていたが、船が近づくと「日本が動いたぞー‼」と大声で叫んだのを今でも憶えている。 
 
こうして韓国の火は日本に着いた。万雷の祝福の中、私達は感激のあまり涙が止まらなかった。その涙は単に計画を達成出来た喜びだけでなく、何かもっと深いものがあったと思う。
その炎は今でも私達の村で燃え続けている。
父はその火で焼かれた茶碗を小渕総理に贈った。
ある日電話がなり、誰も出ないのでインスタントラーメンをすすっていた私が出ると「自由民主党の小渕恵三と申します」と現役総理からの電話。
いわゆるブッチホンだ。「先日、お父様から頂いた記念の茶碗をアメリカのクリントン大統領に差し上げたいのですが、お父様にお許しを頂けますか?」と。
私は直立不動の姿勢で「結構です。ありがとうございます。父に伝えます!」と話すのがやっとだった。 
 
そもそも、私の初代、沈当吉は文禄の役の時は晋州城(慶尚南道)で日本軍と戦った朝鮮軍城兵であった。僅か3800で2万の日本軍の猛攻撃に耐えたのだ。 
 
しかし、その後の慶長の役での南原城の攻防は悲惨を極めた。千名の城兵に、三千人の明軍、それと7千人の市民である。二百年の平和を謳歌していた計一万一千の俄か作りの守備隊に、戦国時代を生き抜いた日本軍精鋭五万六千人が襲いかかったのだ。南原城は3日で落城した。とりわけ、日本軍の中の島津軍は精強で、朝鮮において、陸戦無敗を誇っていた。この凄惨な戦いの死者は一万を超えるといわれ、現在南原には「万人義塚」と呼ばれる円墳がある。
私の祖先はこの島津軍の捕虜となった。初代が最後に見たのは紅蓮の焔に包まれた南原城であっただろう。
又、島津軍と言えば、海戦において日本軍を圧倒した朝鮮救国の英雄李瞬臣将軍の命を最後の海戦で奪った部隊でもある。現在でも韓国では鬼島津と呼ばれている。 
 
つまり、初代は、朝鮮最強の李将軍の下から日本最強の島津将軍の下に従う事になったのだ。 
 
以来、我が家は常に日韓の狭間にいた。時には敬われ、そして時には蔑まれながら。
太刀や戈を陶土に変え、新しい環境に適応しながら、より美しい物を作ろうと努力してきた。
しかし私自身も幾度も「朝鮮人」と呼ばれたし、韓国においては「日本の400年の垢を洗い流せ」といわれた。
何年経っても二つの国の偏狭な自己愛に振り回されてきた訳だ。 
 
そして、20年前、2人の政治リーダーが大きな決意をした。20世紀の事は20世紀の内に解決しようと。
韓国のリーダー、金大中大統領は過去に無かった「和解」を韓国から申し出た。
小渕恵三総理は敢えて要求されていない「謝罪」を述べ、二人は「21世紀パートナーシップ宣言」を発表するに至る。
この宣言は、五つの分野、43の事業に言及しており、大変優れたものである。そしてそれは、二人のリーダーの相互の信頼と力量、意思があったればこそであるのだ。
その証左として、果たしてその宣言はその後のリーダー達に受け継がれているだろうか?残念ながらそうではない。
この20年で相互の貿易額は2・5倍になり、人的交流は3.5倍に増えたが、政治的な繋がりは20年前の方が確かだったと思う。
今や日韓のリーダーシップは過去から蓄積してきた信頼が無く、現在活用可能な配慮が無く、未来を変える意思が無い(沈揆先、前東亜日報編集局長)という、「三無時代」に入っているのでは無いだろうか?  
 
金大中大統領のスピーチを伺う機会があった。
彼は「我々は日本に焼き物の技術を伝えた。そして日本人はその技術を産業へと発展させた。我々はそうではなかった。
我々が日本に学ぶ所はその点である」と話した。当然、韓国メディアに流れることは無かった。
その時私は大統領の左後方に立っていたが、大統領の背広は首の後ろの襟が擦り切れて中から白いワイヤーが見えていた。
あとで儀典課長の河さんにその事を伝えて、何故あんな粗末な服を着せるのかと尋ねたら、彼は「大統領がいつもこれで構わないとおっしゃっておられます」と答えた。
私は胸を打たれたのを憶えている。どちらのリーダーも、思慮深く、誠実だった。
見た目を気にして高いスーツに身を包み、ギャングさながらのいでたちで国際会議に出かけて行く閣僚を見るにつけ、金大中大統領を思い出す。
以前、公明党の冬柴幹事長と話した時に、「金大統領は南の小さな島の出身で、ソウルで学んだ学生時代にお父様が島からやって来たんだ。その時、朝鮮語を話すことが禁じられていた為、日本語を話せない父親と泣きながら抱き合ったそうだよ」と教えて頂いた。
今は、その冬柴先生も亡くなられた。
両国に相手に対する愛情と信頼を持つ政治家が本当に少なくなってきた。そんな状態で、いくら交流を促進しても、政治の中枢が相互に対する深い信頼が無く、うわべだけの交流を、繰り返すだけでは、相手に対するデフォルメされた一方的で誤ったイメージはいつまでも払拭されない。 
 
ヘーゲルが言った「相手に対する配慮を通じた自立を認め合う」時代の来ることを願ってやまない。 
 

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