直心直伝「三十年」

2016年2月9日

今年は第三十回の国民文化祭が鹿児島で開催された。国民体育大会(国体)は知っているけど、国民文化祭って何?と思われる方は多いと思う。実際、我々も開催が決定してから、その存在を知ったくらいだ。これは文化庁が支援する文化祭で、毎年、各県持ち回りで行っている。殆ど知られていないところを見ると、あまり成果は上がっていない事業なのかも知れないが、それぞれの地域にとっては、やりたくても出来なかった文化事業をやれる絶好の機会となる。

今回、私の所属している鹿児島県陶芸家協会は沖縄の陶芸家達との交流展を指宿市にて企画し臨んだ。

以前「清風」で御紹介した事と思うが、沖縄を代表する「壺屋焼」のルーツは薩摩である。1616年、琉球の尚王家より、島津家に陶工派遣の要請があり、苗代川より三名の朝鮮陶工が南洋の海を越えた。張献巧はその後も琉球に留まり、「仲地麗伸」という琉球名で彼の地に没した。こうした事から薩摩と琉球は焼き物の世界では兄弟、親戚の仲という訳である。(勿論、琉球はその位置から中国の影響も強く受けているのだが)

琉球は江戸時代、政治的には薩摩の植民地としての存在であり、かつ中国に対しても宗主国の礼を取るという二重外交の国であった。つまり、中国と薩摩を繋ぐ重要な立場にあったのだ。従って、中国の文物を乗せた琉球の交易船が定期的に薩摩にやってきていた。その入港の地が山川(現・指宿市)であり、当時の山川港には琉球人の居留区もあったと聞く。又、それにより、山川地区には琉球の歌や踊りが残されており、相互の縁の深さを偲ばせる。そして山川の地は、薩摩焼白土の発見の地でもある。藩主の命を受けた朝鮮陶工達は見知らぬ土地を17年もの間踏査し、ついに指宿・山川の地に白土を発見するに至るのである。島津公大層喜び、朝鮮陶工の長年の苦労に報いるべく、この焼き物に国名を冠して『薩摩焼』と呼んだ。かくして指宿、薩摩焼、沖縄の三つの地が、『紺染(くぞめ)の海』と呼ばれる黒潮の流れに乗って合流したのだ。この交流は藩政時代、営々と続けられ、薩摩藩に莫大な富をもたらした。

沖縄の陶芸家と酒を飲み、語らう事は実に楽しい。彼等は、やはり琉球人であり、同時に強く日本人である。親切で陽気で、その大らかな有り様は別格である。古くは中国、近世に於いては薩摩、日本更にはアメリカと統治された。また、凄惨な地上戦という過去を背負いつつも、荒海を漕ぎ渡り、生き抜いてきた島人の逞しさと明るさを失っていないのだ。それは、彼らの経験してきた過酷な政治環境の中で培われた、小国に生きる者のしたたかさなのだろうか?

今回の交流で沖縄に多くの友人を得た事は、実に有難い事だった。

そして第三十回は国文祭だけでは無い。美山窯元祭りも三十回目であった。思い出すと私が二十六歳の時に始まったイベントであった。当時私はイタリアに留学中であったが、父から長文の手紙を貰い、その中に窯元祭りが始まった事にも触れていた。

心臓の悪い患者がニトログリセリンを服用するようなものでなければ良いのだが、との主旨が書かれてあった。当時の青年達の勢いは、ともすれば苗代川の暗黙の了解や背負ってきた悲しみを知らず、土足で踏み込んで来られたような気がして、一抹の危惧を憶えていたのであろう。今の自分なら良く分かるが、当時の私にしてみれば、あの悲しい歴史を背負った村をそこに暮らしていない青年達が元気にしようと立ち上がってくれたことに、驚きと感動を覚えていた。私が帰国後、まっしぐらにこの運動に飛び込んだのはごく自然であった。仲間外れにされている、と思い込んでいた子供、急に沢山の友達が出来たような気持ち、分かっていただけると思う。

あの頃、三十代の僕は漠然と考えていた。地域が元気になることは、窯を炊くようなものだ、と。登り窯を炊くのは、実はその窯そのものを焼く作業なのである。窯が焼けたとき、中の焼き物はついでに焼き上がるのである。焼き物だけを焼こうとすると炎は炉内をまんべんなく回る事はない。つまり、地域という窯が焼けなければ、我々、そこに暮らす人々も焼き上がらないのだ、と。

地域の為に頑張る事は、自らの為である事に他ならない。それは間違っていないと今も思う。

今では窯元祭りともなれば、千三百台収容の駐車場が午前十一時には満車となる盛況ぶりで、年々その数を増やしている。当時の青年達も今や立派なおじさん、おばさんになっているが、相変わらず祭りの日には揃いのジャンバーを着込み、交通整理や駐車場での料金集めに奔走してくれている。有難い事だ。

かく言う私は「登り窯パン工房」なるものを主催している。米粉百%のみを用いたパンを登り窯で焼き、販売するのだ。お客さん達からは「仕事を変えたのか?」とか「パン壽官だ」とからかわれながら、神村学園高校の未来のパティシエを目指す子供達と一緒に三日間で四千個のパンを焼き上げ完売している。今では祭りの名物になっていると自負している。

企業生命三十年という。我が家もおおよそ一世代約三十年である。私が家を継いだのが三十九歳であったので三十年経つと六十九歳、長男が三十七歳、次男が三十五歳となる。残り十三年、頑張って行けるだろうか自分を励ます日々である。

誠実に労力を尽くす、その事も偽装が蔓延する昨今にあって大切なメッセージであろう。更に、これほど命が軽んじられている現代にあって、焼き物を通じて、生きることの輝きも伝えたい。

まだまだ、頭を使い、気付きを重ねていかなければならない様だ。

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