直心直伝「家」

2015年4月29日

我家にはお客様を迎える色々なスポットがある。まず、正門だ。太い木の柱に支えられた大きな古い武家門だ。その歴史は江戸時代に遡る。五年前に老朽化により、傾(かし)いできた為修理し復活させた。使える材料は全て再利用した。この偉丈夫な門をくぐり、邸内に入る時、お客様は皆一様に緊張するらしい。異次元に入り込む様な気分だろうか。これ迄、韓国大統領や天皇陛下のお姉様である池田厚子様など多くの方々を招き入れている。余談だが、以前鹿児島の天文館でお酒を飲み、代行車で帰る時「美山お願いします」と言うと、運転者が「丁度、美山の真ん中辺りにお寺がありますね」と言うのだ。どうやら我家を寺だと思い込んでいたらしい。そのまま黙っていると僕が酒呑坊主になってしまうので、慌てて訂正、「あそこは寺ではありませんよ」と言いながらも、少し離れた所で他人の顔で車を止めた私であった。

門をくぐると二本のポールに日本と韓国の国旗、これは十四代が日本初の大韓民国名誉総領事になった時建てたもので、毎日両国の国旗を掲げている。これは、遠く韓国からのお客様をもてなす為にとの父の考えである。

次に何と言っても沈家伝世品収蔵庫である。これは十三代が十四代へ残した二つの遺言の一つである。耐震防火の施設に伝来の作品を収蔵し、守って欲しいということであった。更に、渡来四百年の節目の祭りを盛大にやって欲しいと、この二件を頼んだそうだ。父はそれを見事にやり遂げて私にバトンを渡した。

築三十五年を迎えるこの収蔵庫は小さいながらも、実に良く出来た空間だと自分でも思っている。四年前に様々な方の御労力により三十年ぶりにリフォームを施した。沈家作品に特化した空間は狭いながらも実に静謐だ。全ての作品が血筋で繋がっている為、不思議なシンクロニティを感じる。展示内容は博物館の機能と美術館の魅力を込めたつもりである。中に一部展示されている文書類は、実はその総数が一万頁に近く、現在、指宿白水館の深港恭子学芸員の努力により鋭意解読されつつある。歴代の作品もさる事ながら、これらの古文書は明治の沈壽官工房(玉光山製陶場)の様子を鮮やかに示している大切な同時代資料であり、私にとって祖父や曾祖父との大切な通信手段でもある。その内容は広く、白土の配合や釉薬調合等に始まり、薩摩焼の目指すべき「美」の概念にまで及んでいる。

この様に色んなスポットがある我家だが実は私が常に気を遣っている場所は、我家の表の庭なのである。構造物や展示品と異なり、生命の宿る場所なのである。私にとって特に思い出深かったのは、司馬遼太郎先生の著書「故郷忘じ難く候」の中に出てくる臥龍梅を年齢もあったと思うが当方の不注意で枯れさせてしまったことだ。枝を深く剪定し過ぎてしまった為、老木の体内に水分が蓄えられておらず、葉を失った根はもう水を吸い上げる事が出来なかったのだ。愛情のない業者に任せず、私自身が植物の管理に詳しくならねばならない事を痛感した一件だった。当然、植物とて生命であるから、誕生があれば死もある。そして、その終末に立ち合う誰かが必ず居るのである。それが私だったという事だ。それも運命だろう。しかし、植物というものは社員と同じで、常に愛情を持って見守る必要がある。小さな変化を見逃さない為だ。庭に教科書はない。しかし、生命を思いやる我々の気持ちに植物は必ず応えてくれるし、それがお客様に安らぎを与えるのだ。

毎年、少しずつ、少しずつ庭に手を入れている。試行錯誤の連続である。答えもない。どのアングルから見ても美しくありたい、と同時にそれぞれが健やかであって欲しいと願う。それは実に複雑かつ楽しい作業である。そんな事を考えているうちに、もしかしたら僕はこの家に生まれなければ、造園を志したかもしれないな、などと思うようになった。この感覚は家を継ぐまで全くなかった感覚だ。家業を継ぐという事は、焼物を作るという事なのだろうと考えていた。当然、毎月の収支もさる事ながら、まさか社員の職場環境やお客様の導線、古い建物の修理や庭木の一本一本の命まで目を配るという事まで考えねばならないとは思ってもいなかった。言い換えれば、家業を継ぐという事は自分が「家」になる事なのかもしれないと、ふと思った。

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