直心直伝「大邱の思い出」

2015年1月14日

韓国の慶尚北道大邱い言えば、ソウル、釜山に次ぐ第三の都市である。夏は暑く、冬は厳しいと言われるこの地方は韓国で最も多く美人を産すると言われる。そう言われると、そんな気がしてくるから不思議だ。

私の尊敬する先輩の一人に、鳥取の米子在住の佐田山さんという方が居られる。その先輩に御声掛け頂いて大邱出掛けたのは何年前だったろうか?その折、佐田山先輩に紹介して頂いたのが除彰教先生であった。

先生はあの年代の韓国人同様日本語が堪能であった。その除先生と佐田山先輩に御案内頂いたのが水崎林太郎という方の墓であった。不勉強な私はこの人物についての何の知識もなかった。除先生は高齢を推してこの墓所を独り護ってこられたのである。では水崎林太郎なる人物は一体、どの様な人であったのか。

現在、墓所の前に掲げられた看板には次の様に記されている。

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この墓地は1915年(大正4年)日本から韓国に移住し、壽城池を造成した水崎林太郎氏のお墓です。

氏は日本国岐阜県に生まれ、岐阜町長を歴任した後、開拓農民として大邱に定着しました。農業に従事していたところ、壽城原野が早魃や洪水のため多くの被害が出ているのを目の当たりにした氏は貯水池造成を決心、時の朝鮮総督に直談しました。それにより一万二千円(現在の金額では十億円相当)の工事費の支援を受けた氏は、十年もの歳月を費やし壽城貯水池を完成、壽城原野を豊かな農地として生まれ変わらせました。氏は1939年12月までこの池を管理し、その生涯を終えました。

「壽城池の見えるところに韓国式の墓で眠りたい」

という遺言に依り、この地に安らかに眠っています。

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私を大邱へと導いてくれた米子の佐田山先輩は、この水崎林太郎氏の業績に触れ、更には独りこの墓所を護っておられる除先生の存在を知り、顕彰事業のバックアップを続けてきた方である。私は除彰教先生が水崎林太郎氏の墓前でこうつぶやかれた事を覚えている。

「韓国人に墓の掃除を頼むと、韓国人の墓なら3万ウォンでやるが、日本人の墓なら5万ウォン貰わなければやらない、と言われるのだよ。」

除先生はその度に無理解な韓国人に水崎林太郎氏の話を繰り返されるのだそうだ。その除先生が、今春、他界された。

先生がおっしゃった言葉で決して忘れられない言葉がある。

「日帝支配36年は韓国にとって暗黒の時代であったと言われる。確かにそうであった。しかし、その中に清流の様な日本人が居た事も私達は忘れてはいけない。それまで黒く塗りつぶす事は、私達韓国人にとっても不幸な事なのだ」と。

本当に大切な言葉だった。心から冥福を御祈りすると共に、また一つ大切な日韓のかけ橋が失われた事を惜しみたい。

月日は流れ

世は変わるとも

永遠に潤えよ

愛しの池よ

青崗 除彰教

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