直心直伝 「明治の洋食器生産」

2013年9月23日

 去る七月十二日、洋食器メーカーとして有名な名古屋のノリタケカンパニーを訪れた。三年前から我々の為に原料の開発をして頂いているTOTO技術部の志賀部長のセラミック学会陶磁器部会での研究発表を伺うためである。なんとテーマは「薩摩焼 坏土の研究」というもので、薩摩焼の歴史から始まり、三年間の蓄積を含んだ壮大な研究発表であった。その発表の中で志賀部長のとても印象深い発言があった。「朝鮮陶工は十六世紀に薩摩の地に連行され、藩主島津氏より白磁の製作を命じられた。しかし、薩摩の地には朝鮮で潤沢に入手出来た白い陶石(高純度セリサイト)が見つからない。その状況の中で決して諦めることなく十七年にもわたり踏査を続け、ようやく現在の加世田市笠沙椎之木の地で山から出土する白い砂を砕き、用いることで最初の白薩摩を作り上げた。我々現代の研究者は分析値のみに目を奪われ、最初から結果ありきに傾きがちだが、当時の工人の執念を考える時大いに反省すべき点がある」と、述べられた。大企業の先端を担う方の重い発言は胸に響いた。

その後、「ノリタケの森」と呼ばれるノリタケカンパニーの社屋の中でノリタケの歴史に触れる機会を得た。そこには様々な展示があった。日本に於ける洋食器産業の礎を築いたノリタケの陶磁器生産は明治十五年(一八八二)に遡る。福沢諭吉の教えを受けた森村市左衛門と豊兄弟が明治初期に政府からの支援に頼ることなく独自に成立させた日米貿易に端を発する。雑貨を仕入れて輸出する「森村組」その商品をニューヨークで小売する「モリムラブラザーズ」を設立し、その後、一定のニーズを見込める陶磁器を主力商品に置き、製造・展開していったのである。ニューヨークに図案部を新設。デザイナーを送りこみ、又現地で雇い入れてデザインを描き、これを日本で森村組が忠実に再現し、再びアメリカへ輸出するという事まで行っている。そして様々な苦難の末、大正三年(一九一四)遂に日本発のディナーセットの量産に成功したのである。明治十五年の最初の陶磁器生産開始から実に三十年余を経過しているのだ。その事業の成功に向けた真摯な熱意には驚かされた。しかし、ノリ
タケの洋食器生産は決して日本における先駆け、という訳ではないのである。実は幕末から明治の初め頃、京都、有田をはじめ各地でその生産は試みられていたのである。なんと、我が薩摩でも明治六年ウィーン万博に出品後、洋食器生産に挑んでいる。明治十八年、東京で開催された陶器集談会の席上、十二代沈壽官が次のように発言している。

「鹿児島藩政ノトキ製造所及ビ資金ヲ貸サレタルハ一切売買ニセズ 

 維新ノ始メ社トナリ姑(しばら)ク盛ナリシガ、大イニ衰ヘヌ。 又外国帰リノ某人外国ノ食器等ヲ教示シ、画ハ椿菊ノ如キモノヲ第一トスルトノ言ニヨリ、即チ之ヲ製セシニ其品時好(じこう)ニ適セズシテ更ニ売レズ。 其内ニ社ハ倒ル」

 つまり、明治六年のウィーン万博で大変な好評を得た薩摩焼が、その余勢を駆り、社運をかけて洋食器の生産に乗り出したものの、商品開発が上手く行かなかった為、結果的に売れずに、それどころか、それが原因で会社が瓦解してしまったというのだ。明治六年のウィーン万博の大成功が一気に水泡に帰してしまった訳である。その辺りは十二代沈壽官が東京大学史料編纂所に所蔵されている薩(さっ)陶(とう)製蒐録(せいしゅうろく)(公爵島津家編輯所(へんしゅうじょ))の中でも述懐している。

「明治六年 墺国(オーストリア)博覧会御備品御買上ノ際 私ニモ陶器輸送方トシテ上京ノ際、縷々山下博覧会場ヘ出テ、親シク陳列品ヲ目撃シ、傍(かたわ)ラ諸県陶器師ニ接シ其ノ可否ヲ論ジ、大イニ研磨スル所アリ。帰国後尚一層隆盛ナラシメントスルノ際、社長木脇氏有馬氏東京ニ於イテ商法ニ利ヲ失ヒ、迫田社長ハ清国上海ニ於イテ大イニ損亡ヲ極メタリ。故ニ会社ノ資金ヲ失ヒ到底維持スル事能(あた)ハザルニヨリ終(つい)ニ解社トナリ。数多ノ職工業ヲ離レ生計ノ道ヲ失ヒ」とある。

 積み上げてきたものが、崩れ去るのは実に早い。ましてや社運をかけてのプロジェクトであったのだ。時代の要請でもあった洋食器生産ではあったが、会社のいく末を左右する様な商品開発に携わる経営者の責任の重さを痛感する。この洋食器生産の失敗により苗代川陶器会社は解社(即ち倒産)し、それが十二代沈壽官を頭とする玉光山製陶所の誕生になり、そして現在の沈壽官窯へと繋がっていく訳であり、この滅亡と誕生もある意味不思議な感じもする。

森村組はその後『TOTO』『INAX』『日本碍子』『日本特殊陶業』『ノリタケカンパニー』『大倉陶苑』などの大企業に進化していくのである。
  このように見ていくと、私共の先人達が戦いを挑み、残念ながら一敗地にまみれた分野で彼等は見事に成功している。当時の瀬戸地方の窯業生産のスケールの大きさと重厚さを改めて感じる。

倒産を経験した十二代沈壽官は私財を投じて玉光山製陶所を興し、再度ヨーロッパとの取引を再開するが、洋食器生産も完全に諦めた訳ではなかったようで、求めに応じては東京の三井家様の洋食器などは受注生産を行っていた。

当時、見た事もない西洋の食事の器を製作する事は、多くの困難と混乱を伴っただろう。そんな中、仕事に「タブー」を持たず、しかし薩摩の「こだわり」は持ち続けながら多くの新しい物を製作していった。
  この不屈の闘志は初代達の原料探索にも似ている。 
  私は『森村組』の執念、十二代沈壽官の不屈の姿勢に『諦めない』事の大事さをしみじみ感じるのである。やはり、明治はエネルギッシュだ。

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