直心直伝 「陶工の胸に去来した思い」

2013年4月2日

 去る一月二十三日から一週間、沖縄県浦添市の浦添市立美術館に於いて『琉球・薩摩現代陶芸交流展』が行われた。一六〇九年の薩摩藩の琉球侵攻四〇〇年の節目に、隣県として不幸な歴史を乗り越え友好を深めようとの趣旨で四年前から開催されている親善交流の一環である。指宿・山川の有志の献身的な活動を下地としている。隣県と歴史問題を抱えている、というのも不思議な印象を受けるが歴史的事実である。
  オープニング・セレモニーの後の僅かな空き時間を利用してタクシーを飛ばし、私が向かった場所は市内のモノレール美(み)栄(え)橋(ばし)駅近くのジュンク堂書店。ここは以前、鹿児島資本である「沖縄山形屋デパート」として華々しく営業されていた場所である。
  そこから川沿いに空港方面へ路地を左に少し曲がった場所で車を降りた。
  私が訪ねたかった場所は四〇〇年前、琉球に陶芸の技術を伝えた苗代川陶工・『張献(ちょうけん)巧(こう)一六(いちろく)』の墓である。
  一六〇九年三月四日、薩摩藩は琉球に対して『琉球征伐』と称して三千の軍を派遣した。そう言えば朝鮮出兵の際も『朝鮮征伐』と号していた。友好的に親しんでいる相手にいきなり抜き身の刃を振るうのを正当化する場合、昔の人は度々『征伐』と言った。

薩摩軍は抵抗する奄美の島々を次々と武力で制圧しながら南下。遂に同年四月一日、王府・首里城を陥とした。以来、奄美、琉球を薩摩の植民地としたのである。その侵略の理由は琉球が行う明国との朝貢貿易の利を我が物とするためであったとか、琉球の薩摩に対する非礼を咎めるためであったなど諸説ある。

そんな中、琉球王、尚豊公の懇請により島津家当主、島津家久は張献巧一六、安一官、安三官の三名の苗代川陶工を琉球に派遣したのである。彼らは現在の沖縄県庁のある湧(わく)田(た)の地に開窯し湧(わく)田(た)焼を始めた。現在の壺屋焼に繋がる焼物の発祥である。
  やがて安一官、安三官の二名(兄弟と思われる)は消息を絶つ。薩摩へ戻ったという説と朝鮮に逃れたとの説もあるが、不明である。
  しかし、張献巧一六は一人そのまま琉球の地に留まり、琉球名『仲地(なかち)麗(れい)伸(しん)』と改名して琉球陶芸の指導を続けた。当時の琉球には荒地(あらち)焼あるいはパナリ焼とよばれる南蛮手の質素な焼き締めの土器は存在したが、釉薬のかかった上手の白焼きは存在しなかったのである。琉球があの素晴らしい赤絵の仕事を手にするまでにはその後、二世紀の時を必要とするのである。

さて、タクシーを降り、ようやく探しだした張献巧一六の墓は、狭い道路脇の駐車場の奥にあった。隆起石灰岩の土手に横穴を掘り、洗骨を入れた厨子(ずし)甕(がめ)と呼ばれる立派な箱型の骨壷をいくつも入れ、横穴の入口を漆喰(しっくい)で塗り固めた琉球独特の墓である。そこには草が生い茂り、内地の我々の目には到底そこに墓があるようには見えない。

傍らに黒く一メートル程の薄い石塔を見つけて、真ん中に浅く刻まれた文字を指でなぞると『張献巧一六仲地麗伸墓』と刻んであった。
  四百年前、朝鮮から薩摩に虜囚として連行された張献巧一六、慣れない薩摩での異国生活、おそらく薩摩で妻を娶り子を為したであろう。しかし、その十八年後には藩命により遥か南洋の琉球へと送られ、そして遂には琉球の土となった。

壺屋焼の陶祖とも言える彼の墓に詣でる者は今は居ない。沖縄の陶工達ですらその正確な墓所を知らぬであろう。忘れられた『張献巧一六仲地麗伸墓』の墓に額ずき一人手を合わせながら、彼の人生の旅に想いを致すとき、私が思い浮かべたのは一七八二年(天明二年)に苗代川を訪れた医者 橘南谿の西遊記の一節である。彼は当時の苗代川工人の一人に向ってこう問いかけた。

「朝鮮は故郷ながらにも数代を経給へば、彼地の事は思いもだし給うまじ」と問えば、「故郷忘じがたしとは誰人のいい置ける事にや、只今にてはもはや二百年にも近く、此国の厚恩を蒙り、詞までもいつしか習いて、此国の人にことならず。衣類と髪とのみ朝鮮の風俗にて、外には彼地の風儀も残り申さず、絶えて消息も承らざる事に候えば、打忘ることに候えども、ただ何となく折節に付けては故郷ゆかしきように思い出で候いて、今にも帰国の事ゆるし給うほどならば、厚恩を忘れたるには非ず候えども、帰国致したき心地候」

と言えるにぞ、余も哀れとぞ思いし。

 二〇〇年を超えても尚、この悲しい程の祖国への思慕の情を思う時、張献巧という陶工の胸に去来した風景に思いを馳せ、私の胸も悲しくしめつけられた。

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