直心直伝 「西洋と東洋の出会い」

2012年12月29日

 取材を受ける際、「何故、明治期に十二代沈壽官はあの様な独特の焼物世界を表現し得たのでしょうか」と、聞かれる事が多い。

 確かに、それ以前の薩摩焼とは大きく異なる。従来、あまりなかった上絵付、それも極純金を用いた仕事が登場してくる。溶解金という技法である。純金の地金を王水で溶かし、その後、気化させた後、硫酸第一鉄を加え、水でさらしながら、最後は膠(にかわ)と指でひたすら擦り上げていくのだ。出来あがった金は三十回程重ね描きされ、金高盛と呼ばれる。沈家秘中の技である。又、釉下彩といって、素地の上に天然の下絵顔料で絵付けを施し、施釉した後、一二四〇℃で焼き上げる技法がドイツから取り入れられた。透かし彫りや浮彫もこの時期開発され、ヨーロッパ向けの作品の大型化も急速に進んでいる。そして、尚、この時代の沈家の薩摩焼を豊かにしているのが、「捻(ひね)り物(もの)」と呼ばれるフィギュア製作の数々である。それらは単なる置き物の領域を出て、一つの精神性の高いモニュメントの様である。

 中国の故事に因んだ「十牛の話」から取り出した「騎牛牧童置物」は、牛の背で目を閉じて笛を吹く少年と、その笛の音に優しく耳を傾けながらも、しっかりと目を開いて前を見る雄牛のコントラストが両者の普段の親密さを伝えてくれる。又、「夫婦鹿置物」は雌鹿が無防備に水を飲む間、雄鹿が凛と首を立て、静かに周りに注意を払う。そして、背後の一本の紅葉が一度、二つに分かれた枝を、上部で再び交差させている。この紅葉の技の重なり合う姿が二組の夫婦鹿の愛情を際立たせているのだ。これらの作品に見られる命の描写は何と表現したら良いのだろう。深い観察力と洞察力を持って、一瞬のシーンをカメラマンの様に抉り取っている。

 それまでの薩摩焼には存在しなかった表現である。

 一体これらの変化は前触れもなく突然訪れたものであろうか。あるいは一人、天才十二代沈壽官の才能に帰すものだろうか?否、薩摩焼のような「精陶」と呼ばれる世界は決して一人の人間の力で成り立つものではない。それはあたかも交響楽団の様に、種々の優れたエキスパートが作品の意味を深く理解し、優れた指揮者のタクトの下、シンフォニーを奏でるのである。

 十二代沈壽官の登場の時期、タイミングを合わせた様に非常に優れた技術者集団が登場してくる。この、時代が産み出したとしか思えない人材群の登場は偶然であったのだろうか。彼らが生みだした仕事の数々は従来の中国陶器の亜流としての日本の陶磁器や西洋の流行に媚びるお土産物的な仕事とは全く異なり、白陶の素地を全面に出して日本的な感性を遺憾なく発揮している全く薩摩独自のものと言って良いのである。

 ここに興味深い一文を紹介したい。現・静岡県知事である川勝平太先生の著書「ふじのくに」の一文である。以下抜粋―

 西側の二つ(哲学と一神教)と東側の二つ(仏教と儒教)のうち、前者は西北方向へ、後者は東北方向へ広まりました。西北の果てにはユーラシア大陸の西端に浮かぶ島国のイギリスがあります。東北の果てには、ユーラシア大陸の東端に浮かぶ島国の日本があります。(中略)一神教(キリスト教)は、ルネサンスで復興したギリシャ哲学と最初は水と油でしたが、やがて融合し、神の真理を人間の理性で理解し、見出された真理は時空をこえてなりたつ自然法則だとするニュートンに代表される近代科学をイギリスで生みました。そして、その科学を技術に適用してイギリスは世界最初の「産業革命」をおこしました。一神教と哲学とはイギリスで「科学・技術」に変容したのです。(中略)日本では仏教は、その渡来直後は国論を二分するほどに神道と対立しましたが、やがて折り合い神仏が習合しました。「八百万(やおよろず)の神々」は仏教側からいうと「天台本(てんだいほん)覚論(がくろん)」です。天台本覚論は天台座主(ざす)の良源が確立し、その弟子の源空が『往生要集』を著して世に広まったものですが、それは「草木(そうもく)国土(こくど)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」「一切衆生悉(いっさいしゅじょうしつ)有(ゆう)仏性(ぶっしょう)」という理念に集約されます。この理念が「芸術・芸能」の領域に浸透したことに注目したいのです。(中略)

 日本は東洋とは日本海・東シナ海で隔てられ、西洋とは太平洋で隔てられています。日本海・東シナ海の波濤をこえて東洋文明が流入し、太平洋の彼方から西洋文明が流入しました。それらは日本化し、東西文明は日本のなかで調和しました。(中略)幕末の開港は「力の文明」と「美の文明」との出会いです。日本は富国強兵を国是として「力の文明」を目指しました。イギリスの他西洋諸国は「美の文明」に魅せられて「ジャポニズム」の流行を起こしました。両者は互いに影響し合いました。(後略)          以上

薩摩は日本の中にあって極めて古くから東西文化の交流地点であった。従って異質なものを受け入れ内地化するという才能は時代の中で徐々に磨かれていたものと思う。

十二代沈壽官はその薩摩藩による藩政刷新の大改革の一つである「苗代川御取救」の時に工人としてのデビューを飾った。時代はまさに藩主・島津斉彬による集成館事業の始まりであり、十二代沈壽官はまさに集成館事業世代といってよい。集成館事業とは西洋の新しい知識を在地の技術で具現化するという作業であり、それは世界的に極めて珍しい近代化への道であった。そして、これは江戸時代薩摩人の明確なアイデンティティを物語るものでもある。

文久三年(一八六三)、薩摩が薩英戦争の惨禍の中で西洋の軍事力の凄まじさを改めて思い知った当時、十二代沈壽官は新進気鋭の薩摩藩藩営工場の工場長であった。当時二十八歳。彼に続く若き陶工達も従来の封建制度の中にありながら、時代の大きな変化の胎動を感じていた筈である。これらの西洋との出会いに伴う高揚感が若き陶工達に自らの中に内在している日本的な「芸術・芸能」を視点を変えて更に深化・活性化させるという化学反応を起こしたのではないだろうか?西洋からもたらされる新しい論理・宗教・科学技術を学びながら、改めて日本人としての「美」を追求していったのであろう。これは薩摩が日本で最も早く西洋と出会った地であることに加え、しかし、決してアイデンティティを揺らさないという江戸時代薩摩人の「太さ」を持ち合わせていたからであろう。故にあれほどのイノベーション(革新)を為し得たのではないだろうか。

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