直心直伝 「福島での個展」

2012年6月26日

去る四月十二日~十六日まで福島県会津若松市、四月十九日~二十四日まで同いわき市へと個展で出掛けた。八年前に縁あって福島県いわき市で個展を催した小野美術・小野社長の依頼だった。

 依頼は昨年の四月末だった。三月十一日の東日本大震災。更に四月十一日のいわきを震源とする震度七強の大地震に見舞われ、いわき市の小野美術画廊も壊滅的な被害に遭った。店内に居た女性スタッフは倒れたケースと落下物の中で九死に一生を得た。当然、中に展示してあった所蔵品、預り品は破損し美術画廊としては到底立ち直れない状況であったようだ。

 開廊十周年目を迎えていた小野氏は、その苦境の中、私共の窯へ連絡をくれ何とかもう一度立て直したい、このままでは終われない、是非、開廊十周年の節目としても「十五代 沈 壽官展」を聞きたい、との事だった。為す術もない茫然自失の中で、私達に声を掛けてくれた小野氏の不屈の思いに私は応えたかった。

心配する周囲に対し、「こんな事しか僕等には出来ない。売れる、売れないといった算盤勘定よりまず駆け付けよう」と話した。

結果的に震災から一年後の開催となったのだが、行ってよくわかった事は東北三県の中でも福島は少々事情が異なるということだ。地震、津波の被害に加え、原発、風評の被害いわゆる四重苦にあえいでいるのだ。

 私の周りにも、福島を気遣う言葉を発しながらも、風評をまともに信じて遠ざけようとする人は居る。

 確かに、目に見えない放射能は怖い。私自身、一九八六年イタリア留学中のチェルノブイリ原発事故の際に同じような経験をした。風評が飛び交い、何が真実なのか分からなかったものだ。その時は全ヨーロッパが被爆したとされるが、今回の福島に対する同国人である日本人の反応には首をかしげる。「いわき」ナンバーの車には給油しない。配達のトラックはいわき市に入らない。いわきからの転校生から、「放射能が移る」とクラス中の小学生が逃げ回る。

 これらの事が、どれ程、福島の人々の心に癒しがたい傷を残しただろう。ほんの少数の人々の行為とはいえ、それらのニュースは多くの福島の人々に大きなストレスを与えたと言える。私も鹿児島に帰って来てから、「福島行ってきました」というと、何故か反射的に、「原発関係ですか?」と言われる。そんな訳ないのに、福島イコール原発というイメージが出来上がり、定着してしまっているようだ。

 福島の人々は、この目に見えない放射能と風評のストレスの中で地震と津波を背負いながら暮らしている。勿論、立ち入ってはいけない地域があるのは事実であるが、今、自分が暮らしている場所の放射能線量も知らない人間に対しては、ブラウン管から見るのと、行って見るのは大違いですよと言いたい。駅には、学生服の高校生達が通学の為数多く集まっている。グラウンドからは野球に興じる子供達の声が聞こえる。

 

 会津の人々もいわきの人々も実に温かく歓迎してくれた。

 あちこちに大震災の爪跡と残しながら、それでも一つずつ何かを取り戻すかのように日々の営みを大切にしていた。

 雪の積もった霊峰会津磐梯山を誇る人、飯盛山で自刃した白虎隊の事を涙ながらに語ってくれる人、菜の花畑の向こうに満開に咲いた、桜、桃、梅の花園。まさに東北の「三春(みはる)」であった。

 

 「一年前は花が咲いていたかなぁ」と呟いた方の言葉に、隣の方も「全く憶えていないね」と、話された。そして、今年の桜は綺麗だと話してくれた。

 一年間の月日は一年分、彼の地の人々に癒しを与えた様である。亡くなった祖母が私に「時薬」という言葉教えてくれた事がある。「時は薬」しみじみとその言葉の意味を噛みしめた旅だった。

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