直心直伝 「美山窯元祭り」

2011年12月6日

 この稿が「清風」に掲載される頃には、既に「美山窯元祭り」は開催された後だろう。

 今から二十六年前、私が二十七歳の時だった。イタリアの陶芸学校専攻科に留学中の私の所へ、故郷美山で東市来商工会青年部によって結成された「東市来町の未来を語る会」のメンバーが中心となって「美山窯元祭り」なるものの開催を計画しているという報せが届いた。

一瞬、不思議な感覚だった。何故なら、私達の故郷「美山」は以前「苗代川」と呼ばれていた時代からその朝鮮からの渡来の歴史故に「壺屋の高麗人」などと時折、差別的に呼ばれる事があり、私自身も、疎外されている感覚を持っていた。又、そこに暮らす人々も長年のそんな環境の中で徐々に心根が固くなり、私から見ても、気難しいおじさん達が多かった。

そんな村に、そこ以外で暮らす青年達が入って来て、その地区全体を会場にしてそこの住人達と供に伝統の焼物造りをテーマに地域起こしをする、という。地区の魅力を掘り起こし、美山のファンを増やしたいというのだ。

果たしてそんな事が可能なのだろうか。負い目だと思ってきた自分達の歴史を掘り起こすという事は、再び言われなき偏見をもたらすのでは?と、人々は戸惑った。

当時、青年達は町行政に大きな不満を抱いており、自分の足下にある様々な宝物に、自分達で光をあてるのだと意気込んでいた。いわゆる「ミニ独立国」「パロディ王国」である。当時、鹿児島県下には百二十を超える「ミニ独立国」があり、九十七市町村の数からみても、時として一つの町に二つの「ミニ独立国」があった事になる訳で空前の「パロディ王国」ブームであり、強烈な行政不信であった。東市来は県下で八番目の「ミニ独立国」コケケ王国(コケケとはここにおいでの意)を宣言していた。一方、活性化の対象に選ばれた美山の住人は、村の事情も歴史も、あるいは自分達の背負ってきた様々な悲哀といったものを、理解していない青年達の一時的な熱気で生活空間を踏み荒らされたくはなかった。当然、地元住民と外の青年達の間に静かな反目が起こっていった。

そんな中、翌年、私はイタリアから帰国。先輩の声掛けで、とりあえず「東市来の未来を語る会」の活動に飛び込んでみた。毎夜、八時から開かれる準備会、そこに集まる青年達は、漁師、農家、電気屋、菓子屋、雑貨屋、クリーニング屋、役場職員、郵便局員など実に多種に渡り、毎晩三十名を超える先輩達が深夜まで、私の地元でのイベントに向けての準備に追われていた。そこには、私がこれまで抱いていた疎外感などは無く、純粋に地域の未来を志向する姿があった。

これまで、あまり顧みられる事がなかった私の地元の為に、今、これだけの多くの先輩達が無償で汗を流してくれている、その事実に自分の目を疑った。その先輩達に対して、いつまでも冷ややかな目を向け続ける地元の人々の存在を私自身本当に徐々に申し訳なく思うようになっていった。

地元の親しい先輩と連れ立って集村の有力者の家を訪れる夜を設けた。焼酎を一本下げ、一軒、又一軒、「こんばんは」と、入っていく。「何しに来たか」と、いぶかしむ有力者へ、今準備中の「美山窯元祭り」の話しをする。そして、どうか、特別な力添えは要りませんから。最後まで見守っていて下さい。そうお願いして辞する。そんな夜が幾晩もあった。外部の青年達への反発を和まし両者を少しでも近づけるには、地元の我々青年が繋ぎ役になるべきだと考えたからだ。

 

あれから二十六年、当時黒髪の仲間達の、ある者は禿げ、ある者は白髪になった。一回目、二回目の来場者数は、たったの三十名だった。その様子を見てせせら笑った地元の人も多かったはずだ。ある時は露店商組合の代表に頼んで、祭りの賑やかさを演出する為、たこ焼き屋さんにも来てもらった事もあったが、あまりの暇さにお昼で帰られてしまった。又、自分達でうどん屋を開業した事もあった。しかし、継続の中で徐々に徐々に祭りは成功し始め、確実に集客力を高めていった。

こんな事があった。

行政がいつまでも公式な支援を行ってくれない事に業を煮やした先輩諸氏は遂に強行手段に打って出た。早朝、町長の執務室に侵入し、自分達の用意した支援を約束する文書に勝手に町長名の署名押印をしたのだ。当然、重大な犯罪であり、後にすぐさま露見した。

うなだれる我々の顔を町長がじっと見つめながら尋ねた。「そんなに、やりたいのか。」頷く我々に対して「年に十五万の予算を付ける。但し二度とこの様な事はしないと約束をしなさい。これからも元気に地域の為に頑張りなさい。」我々が跳びあがって喜んだ事は言うまでもない。

翌日、役場庁舎の正面に早速「コケケ王国宮殿」の看板が墨黒々と掲げられ、薩摩焼で作った王冠が町長室に飾られた。ついでに「コケケ王国国王」の名刺も添えて。あまりの早さに町長も目を丸くしていた。

二十六年が過ぎた。

今や、初日から午前十時半過ぎには千四百台収容の駐車場は全て、満車になり、会期中、十万人近い来場者で村は埋まる。そして、延べ四百名を超すボランティアスタッフの中には、当時、小学生だった子供達が今は指揮棒を振り、交通整理や駐車場係を行う。又、地元の各家々からもボランティアが出て来る。役場職員も市長を筆頭に休みを取って協力してくれる。地元の方々も年に一度の祭りを楽しみにしてくれているようだ。すっかりおじさんになったあの頃の青年達も相変わらずやってきてくれる。祭りの準備の為、朝出勤前に六時半から草を払い、駐車場をつくる、又、空き缶拾いや道路清掃を行う。中には祭り終了後、一人自分の車でゴミや看板の取り残し等、最終チェックまでしてくれる人もいる。年を追うごとに練度を増し、内容も豊富になっていった。

 

彼らの運動は、決して一時的な興味や熱気ではなかった。そして、その事は何よりも地元の人々に理解されたと思う。その運動は実を結び、美山に実に大きな転換を与えてくれた。その行動力が行政を引き込んできたのだ。もし、この動きが下地になければ「薩摩焼四百年祭」も絶対出来ていない。

現在、美山には、多くの工房が出来、そこに集う若い彼らは再び美山の新しい魅力を探しつつある。

故郷というのは、そこに生まれ育った人々より、時として外からの視線を持ち、そこで生きる事を選んだ人達によって動かされるものだ。新参の彼らにしてみたら、吹く風も揺れる竹林も全て、当たり前のものでなく、自らの意志で選んだ風景である。その地に生まれた人々にとり、当たり前なものが、他所の者には決して当たり前ではないということなのだ。

考えてみると、私達の先祖ももとは外来者であった。

自らの意志ではなかったが、新天地で生きる覚悟を決めた時から、この地は彼らの新しい土地になった。彼らには何もかもが珍しく見えた事だろう。沈む夕陽も故郷朝鮮のものとは異なったと思う。しかし、その単純な驚きは彼らの日々を生きる上での新しい糧になったのかもしれない。

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