直心直伝『白薩摩の土』

2011年9月21日

「白薩摩の土はこの辺りで採れるのですか?」よく耳にする質問だ。それに対して「以前は霧島や指宿で採れるものを使用していましたが、最近では県外のみならず、海外からも入ってきます。もう土が採れなくなってしまったのです」と答えていた。
確かに藩政時代から採取してきた陶土の層は純良なものが採り尽くされ、もはや枯渇したと言われている。鹿児島県の調査でも同様の報告がなされている。
しかし、そのままで良いのか、と自問すると決してそのままで良い訳はない。しかし、新規の鉱脈を県下で探す事は想像を超える難問である。国指定国立公園法の縛りもある。鉱区権の問題、地主との相談、何よりも広大な表土の下の鉱脈をどうやったら発見出来るのだろう。それを思うと、初代達の白土発見の凄さを実感する。言葉も通じない、地理にも不案内な異国で、ボーリング技術も持たない彼らは白陶土を発見し、薩摩焼を世に創出したのだ。
白薩摩原料と一口に言うが、決して一種類ではない。人の体も骨や筋肉や脂肪といったものがある様に、陶土の組成も一つだけではない。数種の性質の異なった原料を配合するのである。それは石の様に固いものから簡単に手で砕けるものまで様々である。
指宿市、山川町、開聞町、笠沙町、霧島町、入来町などいずれも藩政時代より様々な白薩摩原料の産出地としてその名を知られた土地である。しかしながら、この三十年間程、鹿児島県内いずれの陶器工房も土の入手を県外の陶磁器原料屋に発注するようになってしまい、県内のそれら原料産地はもはやその存在すら忘れられようとしていた。それは前述した通り、原料の枯渇に加えて省力化である。
その様な状況の中、今回私が改めて現地調査並びに鉱山主との交渉に入ったのは自前の陶土、しかも鹿児島産の原料のみで造り上げた陶土をやはりどうしても開発しなければならないと思い続けていたからである。
三年前、フランス国立セーブル美術館で開催された「パリ薩摩焼展」に於いてフランス側から提起された「薩摩焼の定義とは?」との問いかけは私達の業界に大きな問題意識を与えた。少なくとも私には非常に重大なテーマとなった。
いつからか、薩摩焼業界は鹿児島県内で生産された焼物を大括りで薩摩焼と総称してきた。しかしそれは、鹿児島県で生まれた黒豚を全て薩摩黒豚と称する様な危険な事だ。それは誤りである。薩摩黒豚とは脚の先、鼻先、尻尾の六箇所が白い、所謂「六白」と言われる種に限定されている。即ち、エリアと遺伝子の両方が存在して初めてブランドとして確立しているのだ。その様な視点で考えると、鹿児島で焼かれたものを全て薩摩焼と呼んでしまう事は、伝統的工芸品も創作陶芸も全て薩摩焼に属してしまう事になる。そのお客様にとっての分かりにくさが伝統産業としての白薩摩製造の衰退に拍車を掛けているのだろう。衰退は後継者の減少と品質の劣化を招く。このまま放置しておけば、おそらく十数年後には白薩摩生産を行う者は消滅してしまうかもしれない。
未来に一筋の光明を見出すには、どうすれば良いのか。その問いの答えとして、ローカルな意匠や製造の精度を増すだけでなく、焼物の原料そのものも地元産にこだわらなければならないという当然の結論に辿り着く。即ちローカルをより上質に磨き上げる事がオンリーワンである事に繋がるのである。

しかし、現実に山に入ってみると、三十年の歳月はあまりにも長く、鉱山の良質な部分は確かに堀尽くされ、更に製土に関する情報や人材も失せていた。断片的な情報が残されているだけで系統立った実践の理論が消えてしまっているのだ。しかし、現地のオーナーに事情を話すと採取に理解を示してくれる所もあった。御好意により、完全に途絶えていたと思っていた製土への可能性がほんのわずかではあるが残されたのだ。それは、笠沙椎の木の陶石と入来町のカオリナイト鉱床であった。少し専門的になるが、陶石とは石英の周囲に長石や粘土質がまとわりついた状態のものであり、陶土の中心的役割を果たす。また、カオリナイトとはアルミナ分を多く含む白色土で成形性を補助し、白色度を高めてくれる役割を果たす。白薩摩焼の製造に不可欠なこの二大要素に可能性が見出せた事は大変意義深く、調査の大きな収穫であった。この細い糸を大切に、大切に紡いでいかなければならない。

焼物は一に土、二に焼、三に細工と言われる。
面白い事に薩摩焼の原料となる様々な白土は必ず温泉の近くに産出するのだ。つまり、原料となる土は、特定の岩石が火山による地熱の影響を数億年規模で受ける事により熱変成したものなのである。我々はその中で硫化帯に汚染されていない純良な部分を選び、砕く。砕くといってもどれくらいの力で何時間砕くのか、大切なポイントになる。更に砕かれたものを水で緩やかに攪拌しながら重い砂を取り除く水簸という作業を繰り返す。細かな粒子を選り分けて沈殿させるのだ。そうして作られた幾つかの異なった性質の微細な泥を配合し、製作に向いた陶土に仕上げていくのである。やがて陶土で作られた物達は一二〇〇℃の高温で固く焼き上げられる。

この様に白陶土の作り方とは実に手のかかるものである。初代達は島津家の志向した白い陶器を創出するため命がけで頑張ったのだ。初代達が献上した白い陶器を見た藩主は「まるで、熊川の様だ」と喜んだ、と伝えられている。熊川とは韓国の地名で昔から焼物作りが盛んな窯業地である。
私達は地球が数億年を掛けて「火山
という窯で石を土に変えてくれたものを、加工し、成形した後、今度は窯という「火山
に入れる事で、再び土を石に戻すのである。陶工の作業とはそういう事だ。

ページの先頭へ