直心直伝『薩長展』

2011年7月16日

本年、四月二十日、県立歴史資料センター黎明館に於いて、『現代陶芸薩長展in鹿児島』が二週間の会期で開催された。この催しは鹿児島陶芸家協会、萩陶芸家協会両者の主催で開催されたものである。
伊藤鹿児島県知事、森鹿児島市長、野村萩市長ら多くの関係者が居並ぶ中、開会式は行われた。期間中の来場者は三千人弱にのぼり、予想を超える多数の方々の来訪を頂いた。
「薩長」という言葉の響きに胸騒ぎを感じたのであろうか。いずれにせよ、展示会は大成功だった。
萩焼は慶長九年(一六〇四)に藩主毛利輝元の命により、朝鮮人陶工、李勺光(山村家)、李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされる。当初は高麗茶碗をつくり手法も形状もそのものであった。所謂「古萩」と呼ばれる時代である。その後、枝分かれし、様々な作品を生み出していくのであるが、茶道の世界では『一楽二萩三唐津』と言われる程、茶人好みの器を作り続けてきた産地である。
一方、薩摩焼もその創生期に於いて全国共通の評価基準を持つ茶道具の製作を行ってはいるが、萩焼の様に茶道具を全生産品の中心に置いていた訳ではない。

萩焼と薩摩焼、その二つの出身は同じく朝鮮半島である。
それぞれ、毛利家・島津家という異なった領主の支配下に入った同じ技術(朝鮮白磁)を持った朝鮮陶工達は異なった政治体制、経済環境、社会、風土の中でその土地ならではの焼物、即ち「国焼」を創始していった。
出身を同じとする萩焼と薩摩焼、その二つは兄弟と呼んで差し支えないどうしでありながら、四百年の歳月の中でお互いの姿を大きく違えていった。そしてこの事は、九州各地に点在する焼物にも同様の事が言える。何故なら、それらは全て朝鮮半島にルーツを持ち、そして各領主の下で独自の変遷を遂げたものであるからである。
実は、この様な現象は実は大変珍しい事であるのだ。何故なら、これ程多様な焼物が同じ時期に、しかも決して広くはない土地に同時期に、存在している例は他の国には無いのである。多くの国の場合、時代や王朝の変化による焼物の変遷はある。例えば高麗を代表する焼物が青磁であり、李朝が代表する焼物が白磁である様に。
九州・山口で発生したこの様な現象は、各地に於いて独立した自治を持つ領主が存在した事に由来する。つまり、豊臣秀吉の命令により、朝鮮半島へ攻め込んだ西国大名は、それぞれ多くの陶工達を連れ帰り、そして、各々が自らの領地でそれらを保護し、内政に活用した事により一時に流入した、同時にそれぞれの地域に根付いた事によるのである。その結果、世界的にも非常に珍しい光景を創り出したのである。

後年、幕末に於いて萩焼を創始した長州藩と薩摩焼を創始した薩摩藩は、日本の近代化に於いても、実に大きな働きを見せた二大雄藩となる。
日本の近代化は幕末期の薩摩藩主島津斉彬の集成館事業にその端を発する。西欧の脅威に晒される中、諸外国と対等に交易の出来る強く豊かな国をつくるという思想の下、あらゆる産業に挑戦していったのが、集成館事業である。そして、その思想はやがて九州・山口へと広がっていったのである。その近代化の発展形態は世界史的に見ても特異なもので、在地の技術を応用する事で、西洋の先端技術を吸収していくという自国民主導の近代化であった点である。そして、それらは九州・山口から始まったと言っても過言では無いのである。
そのエネルギーの背景にあるのは九州・山口が古くから東アジアや西洋諸国各地との文物・文明の活発な交流を繰り返してきたという点にある。
韓国に於いてはもともと同じであったものが、日本に土着した事でいくつかに枝分かれし、そして近代化という封建制度の崩壊と供にそれまで身に付けた地域性といったものを徐々に脱ぎ捨てていく。
そして今や、両者は、創作陶芸の分野に於いては、産地というものを微塵も感じさせない様になっている。
その事がどうゆう事か、伝統とは何か、創り出すとは何か、もう一度自らに問い掛ける重要な展示会となった。

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