直心直伝『エトワール開幕』

2010年12月1日

去る十月四日『CHIN』展は開幕した。
五年に渡る準備期間を経てようやく実現した展示会だ。
五年前、当時の三越本店・前GM大島英仁氏より「五十歳の記念にパリ・エトワール美術館で十五代沈壽官展をやりましょう!」との御提案を頂いた。
その時、私の心に浮かんだのは慶応三年(一八六七)薩摩藩が出展した第二回パリ万博、そして明治三十二年(一九〇〇)の再びのパリ万博であった。
曾祖父十二代が指揮を取り、製作、出品した万博である。

もう一度、パリの空の下に沈家の作品を展示出来る、そう思い「私の個展でなく、沈家の歴代展にして頂けませんか?」と逆にお願いした。
企画案は本社に持ち帰られ協議、了承された。しかし、これは未だ見ぬ苦労の始まりであった。
私のこれまでの視界にある沈家作品の中から代表作を全てパリに集める作業は多くの困難を伴う。
国内外の公立、私立の美術館に館蔵されている作品を始め、個人蔵の作品を借り受ける事は容易ではない。詳しくは記さないが、この五年間、調査の為の旅から始まり、高いハードルを幾つも超えなければならなかった。

物にとって「動く」という事が、如何に危険を伴うものであるか、という事だ。
美術館側は「保存」と「普及」という二つの使命の間で揺れている。
その結果「十五代沈壽官展」という個人の展覧会であれば生じなかった膨大な事務作業と多額の費用を必要とする事となり、その経費は実に一億円に迫る事となった。
これらの費用の捻出に当たり、全国の多くの方々や企業に御協力を頂いている事に、この場を借りて深く御礼を申し上げたい。

パリの中心の丘の上に「凱旋門」は立つ。
高さ五十メートル。ナポレオン一世がローマのコロッセオ脇に立つ「凱旋門」を見て、自ら設計、建設を開始したという。残念ながら彼はその完成を見ずにエジプトでこの世を去ったが、ナポレオン三世の世になりようやく完成。その周囲を守り固める様に十二の館が造られた。それらはナポレオン一世を守護した将軍達になぞらえて、「将軍の館」と呼ばれたのだ。
その一つが現在のエトワール美術館である。片仮名の「コ」の字を開いた様な、四階建てのパレスは三越の手により、パリでも三本の指に数えられるアート・ホールに仕上がっている。

三越本店・現GM内村宏氏の司会でオープニング・レセプションは始まった。
通訳者はなんと現・パリ市副市長夫人であるMrs.カトリーヌ・カドウ。彼女は司馬遼太郎氏の『街道を行く』にも登場する日本通の名物女性である。
「私は日本語の自由な所が好き。何故なら、日本語は基本的にとてもシンプル。そのシンプルな日本語を論理的に組み立てる文法が実に面白いの。その点、フランス語はパリの街と同じ、ガチガチに固められていて変えようがない」と話す。
自由の国の女性から、唐突に日本語と日本の街の方が自由だと言われた私は面喰った。

スピーチは三越の石塚邦夫代表取締役社長、齋藤泰雄在仏日本国特命全権大使、朴興信在仏大韓民国特命全権大使と続き、最後に私の番になった。
Mrs.カトリーヌ・カドウ「何か下書きのペーパーがあるの?無い?OK、その方がいいわ。やりましょう!」笑顔のリラックス・マジックが効いたのか、僕はすっと落ち着いていった。

「サツマ」とは地名であり、様式ではない事、その特徴の事、韓国より日本に至りパリの街で初めて世界に紹介された歴史、そしてこの会場に初代以来四〇〇年の私の先祖達の魂が集まっている事、等々。
三百三十名を超すフランス美術館関係者から強く暖かい拍手を頂いた。

エトワール美術館は諸般の事情により、この企画展を最後に、その幕を降ろす事になっている。
四年近く裏方作業を一人でやり遂げた担当の上野憲一郎氏はクールな男だが「先生、おめでとうございます」そう言った彼の声はしみじみと輝いていた。

振り返ってみれば、本当に数多くの方々の協力と愛情に支えられてきたのだ。

この五年間叶った夢もあるが、叶わなかった夢もある。しかし、どの夢の影にも献身的に尽してくれた人々がいた。その多くの人々の顔を思い浮かべ、そして彼らの願いを乗せてエトワール美術館『CHIN』展という船が二ヶ月余りの航海に旅立ったのだ。

関係者を含む全ての一人一人の方々に感謝したい。そして、最後まで情熱を持って充れた自らの幸運と、それを支えてくれた工房の仲間と家族に感謝したい。

曲がりなりにも、一つの到達点に立てた事は、我家にとっても薩摩焼にとっても大きな節目である事は間違いない。
作品の無事の帰港を待つ。

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