直心直伝『青松郡徳川村』

2010年8月6日

『本貫(ほんがん)』という言葉を御存知だろうか。韓国の人々にとってとても大切な言葉だ。これは各々の家のルーツを示す言葉である。
私の「沈」姓は慶尚北道青松郡を本貫としている。従って青松沈氏と呼ばれている。
高麗時代の沈洪孚という人物を始祖とし、その曾孫の沈徳符が、朝鮮王朝開国の功により朝鮮王李成桂より青松の地を賜わった。いわば、最初の出世頭である。この沈洪孚を始祖とする青松沈氏の系譜からはその後、ハングルの父とも呼ばれる世宗大王の妻、昭憲皇后を始め国務総理を九人も輩出している。出世し、王より新たに領地を賜わった人々は各々「派」をつくり枝分かれしていくのだが、全ては元をたどると「青松」にいきつくという訳だ。
先日、この青松を訪ねた。青松訪問は最初ではない。今から二十五年前、新婚旅行の際に初めて訪ねた事がある。当時、既に新婚旅行はハワイかヨーロッパが主流であったが、父の希望で、私達は韓国へと渡った。
大邱駅で待っていたバス一台満員の親戚達は、青松へ向かう二時間余り、遠来の私達の為にと車中で飲み、歌い、躍り続けていた。中国の古典、『東夷伝』によると、「彼の人々は酒を飲み、躍り歌う事が大好きである」と記されていると聞いた事がある。二千年経っても少しも変わっていない。二十五年前の強烈な思い出だ。
今回はその一族の族譜(全国版の家系図)に私の子供達の名を載せる為、長老達にお願いに来たのだ。
この族譜を見ると、日本に渡った最初の人物、つまり我家の沈当吉が、実は青松沈氏十二代にあたる沈讃である事がわかる。讃は文禄の役の際、慶尚南道晋州城で叔父の友仁と共に日本軍と戦い、叔父の友仁はこの戦いで戦死。その後、讃は全羅北道の南原城へと移り、そこで二度目の戦、慶長の役を迎えた。遂に力尽き島津軍に捕えられ鹿児島へと連行される事になるのだが、彼は捕えられた自らを恥じ終生幼名であった「当吉」の名を貫いた事がわかる。
四百年前の事がまるで数十年前の事のように描かれている。実に面白い。私は従って青松沈氏二十六代孫という訳だ。

青松・・・その名の通り青々とした松の群生地(とはいえ韓国どこも比較的そんな景色なのだが・・・)である。
沈氏が集団で生活する徳川村の入口で長老達は待っていてくれた。村で経営する食堂で山の料理を食べさせてくれ、酒を飲み一族の自慢話に花が咲く。こんな会話は各々の一族で同じように行われているのだろう。
翌日の始祖の墓参りの時、一族の長からの言葉は以下である。
一、次に来る時は礼装で来る事。
二、日本の酒を始祖に捧げる事。
始祖に捧げた酒は後で長老達が飲むのだろうが、「かしこまりました」と、深く頭を下げた。

私にとって実際の生活体験のない故郷。そしてそこで初めて出会う親戚や長老との時間は実に不思議な感覚だ。親戚とはいえ、その繋がりは極めて希薄且つ遠い。かといって赤の他人というのでもない。彼らは私の来訪に備えて始祖の墓へ至る参道を掃き清めて待っていてくれる。宿泊も百年以上昔の韓屋(伝統的家屋)を用意してくれる。まさに、親戚付き合いだ。
日本でこの様な事があるだろうか。
我家は日本に渡って既に四百十年を経た。それでも、彼らは私達の事を変わらず親戚だと思ってくれている。私が日本人である事など、何の関係もない。韓国人であろうがなかろうが、青松沈氏の一族である事の方が重要である様だ。
この嘘か本当か分からぬ(こんな事書いたら長老に怒られる)歴史的繋がりが、私に不思議な連帯感と安堵感を与えてくれる。逆に、こういったものを持たない日本社会が空虚にさえ思えてしまう程だ。決して沈一族を頼りにしているという実感はないし、実際頼りにはしていない。ただ、今、自分がここにいる事、そしてここに至るまでの長い旅路の足取りを、俯瞰で見ている事に興奮してしまうのだ。

又、いつの日か私の息子達も、あの峠を越えて青松郡徳川村を訪ねるだろう。その時は、違う長老達が息子達を招き迎えるはずだ。
人口二万七千人の青松郡、私達の隠れた故郷である。

ページの先頭へ