直心直伝『山形屋個展を控えて思う事』

2010年4月24日

十年(正確には十一年前)の初個展は今でも鮮明に思い出す。母が前年の六月に急死し、その思慕の悲しみを活力に変えて臨んだ初個展であった。今、当時の図録や写真を見ていると、かなり気負い立っているのがわかる。ただ、不快な感じはしない。

既にその時点で現在の私達を見て取れる。そう言うと、あまり大した進歩はないように思われるかもしれない。しかし、この十年の県外での個展は三十回を超え、その間様々な経験を積んだ。僕の試練は僕達の試練でもあった。

城下町、宿場町、門前町、新しい町、古い町、本当に色々な所で展示会を開催してきた。

その度ごとにある方向性を決め、初めて会うスタッフとスクラムを組んだ。「一週間で会社作って、営業して、閉鎖するみたいなもんですね」と、どこかの美術部員が呟いたが、その通りだと思う。ただ、毎回毎回、前回よりは更に良いものを、と確かめ続けてきた事は間違いない。

例えば良質白色度をいかに上げるか、貫入の入りを更に微細にしたい、細工仕事の陰影を強くするには、透かし彫りを高度に複雑化させる為の工夫、純金の発色の改良と盛り金の復活、何より、それらの技術を生かして一体全体何を現そうとしているか等、それは陶土、釉薬、絵具等様々な原料から技法、思想に至る全てに渡った。

更にこの十年の間に、我家の古文書の解読も進んだ。それにより、先人達の姿が天然色で想い浮かべられる様になり、十年前知らなかった古の時代の思いも取り入れる事が出来る様になったと思う。

我々は今の時代と、競いながら、同時に我々の先人達とも競い合い共存している。

「家の前の道を左に折れた所に十二代 沈 壽官率いる工房がある」としたら・・・・。想像しただけで圧倒される。「通りの向こうに十三代 沈 壽官が窯を築き直した」としたら、是が非でも、こっそり、覗いてみたい。

彼らを含めた先人諸氏は未だに我々の仕事の中に生きている。不思議だ。父を含め、私達は彼等から生まれたはずなのに、我々の中に彼らが存在するのだ。私が「私達の仕事」と呼ぶのはこの側面があるからだ。

私達は基本的にチームで作業をする。いわゆる『工房仕事』である。そういう意味での「私達の仕事」ではある。更にそれに加えて、私達が用いる土、釉、更には技法に至るまでを創り上げた、各時代の練達の人々が存在する。それらの技術の積み重ねの上に私達は存在している。そうゆう意味での「私達の仕事」もであるのだ。

十年前の初めての展示会で、度々質問された事は「お父さんと何処が違うのですか?」という問いであった。つまり、父親の仕事を伝承するのに、自分のオリジナルをどう注入するのか?という問いであった。この質問にはとても困った記憶がある。仕事とは変化の兆しが見えない程の速度で、しかし確実に変わっていくのだ。それは勿論私の好みもあろう。しかしながら、現実には周囲の環境の変化に従うものだ。彼らは、イタリア留学経験のある私が、薩摩焼に突如、地中海の風を吹かすと期待したのか、あるいは、若さゆえ、極めて大胆なデフォルメを施すのか、いずれにせよ、「そうでなければ、新しくはない」と確信している様だった。

しかし、私は木に竹を継ぐ事はしなかったし、馬の胴体に人間の上半身をつけたりもしなかった。漠然とではあったが、何かが融合するまでは、決して異なったものを折衷してはならないと感じていたからだ。

それよりも、何かを付け足すことにより、そのものをいかに掘り下げられるかを課題とした。何故、そうであるのか?何故そうでなければならなかったのか?という必然の核に辿り着かなければ、核から本当の芽を吹かす事は出来ないからだ。そして、それが叶えられて初めて、自分の持つ文化を道具として用いる事が出来るはず。故に、父を前者、私を後者とする極めて単純な比較論に私が口籠ると、つまらなそうな顔をされたものだ。

県外で仕事を発表するという事は、「薩摩焼はこういうものです。」と示す事であり、又、相手もそれを求めている。私達に備前焼を求めている訳ではなく、信楽焼を求めているのでもない。正真正銘の薩摩を求めているのだ。私達は県外で発表する事により、本当に薩摩である事の重要さを知った。

十年ぶりの地元での展示会である。やはり出来る事しかできないのだが、全力を尽くしたい。

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