直心直伝『火計り茶盌』

2010年3月21日

朝鮮半島より渡来してきた陶工達が最初に焼いたのは茶道具であった。これは薩摩だけの事ではない。朝鮮半島に秀吉の命を受け、出征した西国の大名の多くが、陶工の捕獲に熱心であったという。日本軍によって、実に多くの陶工が拉致された為、その後の朝鮮陶芸は回復不能な程の深刻なダメージを受けたと言われ、従って文禄・慶長の侵略行為を「やきもの戦争」とも呼ぶ程である。
陶工が拉致されて供給サイドが弱まった事に加え、この日本軍の出征により朝鮮側の死者はその人口の回復に百年を要したと言われている事から、国家そのものもズタズタの状態であったようだ。
戦後、その地を経営する意思を持たない侵略者達は略奪と暴虐の限りを尽くしたのであろう。

何故、平和に交わり、通常の交易を行い、際立った国家間の紛争も無かった両国関係に於いて、日本は隣国に突如抜き身で襲い掛かったのか、未だに謎であり、そしてその事実は、今だに彼らの日本不信の根底を形成している。

 さて、西国大名は何故陶工の捕獲に熱心であったのか、私なりに考えてみた。
従来我々が『宝』と呼ぶものは金、銀、玉、珊瑚といった天然の、いわゆる人間が人工的に造り出せないものを指す。地下に眠る天然資源を集め、きらびやかに加工していくものである。
その列に陶器が加わったのである。
当時、日本の社会に於いては、茶の湯の隆盛に伴い、次第に茶道具はその存在の重みを増していった。そして、千利休によって完成された茶の湯の美意識は、遂に陶器を『玉』へと変えたのである。
秀吉に賜わる茶道具は一城の価値に匹敵したのである。
この様な国が果たして他にあろうか。
確かに中国の宮殿に於いて皇帝の前に揃えられる器の数々は、『玉』と呼ぶに相応しい。それらはいずれも純良且つ最上の素材を熟練の技術者の超絶技巧によって加工され、更には厳選されたものである。それに比べ、茶道具は、その産地の原材料を多様に許容し、どちらかというと外見の眩さよりは内面の精神性、禅的なるものをを中心に捉えた中国宮廷の器とは異次元のものであった。従って、各大名は自らの工夫と茶の湯の精神性の探求によって、自領で産する「土くれ」を『玉』に変えられる可能性を得たのである。つまり、どんなに貧しい土地であっても、そこから価値を創造できる可能性を与えられたということである。
それ故に朝鮮人陶工を得た西国各地で様々な焼物が焼かれる様になったのではないか。

例えば、毛利家によって拉致された陶工達は萩の地で「水を容れると漏れる器」を美であると規定された。
 唐津の陶工は朝鮮の粉青沙器の香りを残したものを美とし、薩摩では李朝白磁・とりわけ能川(こもがい)の白を目指した。熊本の高田では、朝鮮陶磁の一技法である象眼を一途に守り、福岡の小石原では刷毛による白化粧を得意とした。
かように、渡来当初、朝鮮に於いて一律であった陶工達は、入植した西国各地で異なった焼物を造り始めたのである。

さて、そんな中、薩摩に伝わる「火計り茶盌」をいうものを御存知であろうか、「土も朝鮮、釉薬も朝鮮、工人も朝鮮、日本のものは火ばかり」という事から、「火計り茶盌」と、呼ばれている。そして、我が家には、この「火計り」と伝えられているものが三盌がある。今日はこの三盌の火計りを紹介したい。
1苗代川(美山)地区で最も古い窯跡は本屋敷窯であると長年言われているが、残念ながら調査の結果、窯体も陶片物原も発見されていない。そんな中で先年、発掘調査のあった堂平窯からの出土品が注目を集めている。実は堂平窯こそが渡来当初の窯ではなかったかとの推論も存在する程、多様である。この茶盌はその堂平窯の作であり、つまり島津義弘公の御側(姶良町宇都窯)ではなく、遠く離れた苗代川地区で焼かれた別の火計りではないかと言われているものである。
しかし、高台の仕上げなど茶味に溢れていてあまりに優れた造りである。あまりに上手すぎて後世の作ではないかと怪しまれている程だ。
2高台が広く、茶の腰行きはタップリと実に安定した姿をしている。朝鮮の「サバル」と呼ばれる「何でも碗」の様なものを連想させる。大ぶりでその伸びやかな造りはまさに朝鮮半島の味わいである。
3薄手の器胎全体に漆による金継ぎが施されている。これ程、日本の茶の湯の美意識に深く染まった茶盌が「火計り」かと、これ又疑いたくなる一品である。②と比較しても明らかに高台は細く不安定であり、ロクロ成形による指跡が高台際から伸びやかに立ち上がっている。

 これら三点は我が家に伝えられた「火計り」である。

渡来当時の事は不明であるが、現在の視点で余断を持ってはならない。
韓国においては近年、日本に輸出する茶器を専用に焼成する窯が発見されている。日本茶道界が当時の朝鮮国にとって極めて大きな市場であり、その市場の好みを伝えるべく、日本人スタッフも朝鮮に常駐しており、それらの書簡も残っていると聞く。又、千利休自身も国内の有力な茶人の問い合わせに対し「唐渡り」「高麗渡り」の道具、即ち舶来品を推薦しているのである。
このように既に日本と朝鮮の関係は当時かなりの深度を見せている。「火計り」と一口に言っても実に様々な形態があったのではないかと思われる。
歴史は謎とロマンに包まれている

ページの先頭へ

直心直伝

2010年3月21日

 ソウル仁川空港を発った機体は、中国東北部上空からモンゴル・ウランバートル上空を飛び、やがてアルタイ山脈を越えた。九月の中旬というのに機窓から眺めるアルタイ山脈は一面の雪である。この巨大な山脈を越えるとシベリア平原だ。
ひたすらに広いロシア・シベリア平原、この圧倒的且つ、無駄に広い平原の中に、水道も無い暮らしをしているロシア人達の村や近代的軍事施設が点在する。
シベリア平原を飛び、やがて飛行機はウラル山脈をも越え、ヨーロッパ平原へと達した。太陽を追いかける様にして飛ぶ為、夕暮れの状態が延々と続く。
約八時間の飛行の後、サンクトペテルブルグ空港に着いた。空港には、エルミタージュ美術館研究員のアーニャ・エゴロワがポンコツのバスで迎えに来てくれていた。気温は摂氏五度、空港の外はひんやりとしていてロシアの男達が黒いジャンバーに身を包みたむろしている。車は、美術館近くのホテル・グリフォンへ。グリフォンとはスフィンクスと同じで王の墓を守る一対の羽のある獅子である。遥か昔、イランの王から贈られた事があるらしく、それを模した一対の獅子を小さな運河にかかる橋の袂に巨大なモニュメントとして置いてある。ちなみにホテル・グリフォンの受付は四階にあり、超重量のトランクを持って、四階まで階段を登る。
 
このサンクトペテルブルグは以前、一時期その名をレーニングラードと言ったが、今はサンクトペテルブルグだ。ピョートル大帝がヨーロッパの町を模して、造営した、世界遺産にも指定されている美しい街である。
 ここにあるエルミタージュ美術館は世界四大美術館の一つに数えられ、その収蔵品の数はというと、一点を一分間見た場合、約五年間かかると言われる程の大変な量である。その二階には、六十年前、第二次世界大戦の時、ベルリンから忽然として消え、長くその所在が不明であった印象派の絵画達が、ガラスのカバーもなく、外光に晒される形で飾られている。これは、どういう意味なのかというと、ベルリンから消えた印象派の絵画達が、突如、サンクトペテルブルグで発見された事により、当然、世界はベルリン陥落の折、ソ連軍がベルリンから持ち出したものと考えた。それに対してロシアは何も答えない代わりに、天井の低い二階、つまり宮殿の女中部屋にあたる部屋に、外光に晒した状態で飾る事で、我々はこれらの絵画に、何の愛着も尊敬も感じていない、との意思表示をしているのだ。
面子の犠牲になった名画達こそ、いい迷惑だ。ロシアにはこの様な顔がある。
 
さて、このエルミタージュ美術館が現在、薩摩焼展を開催中である。三年前、日露修交一五〇年を記念したTV番組の取材中発見されたエルミタージュの地下に存在したニコライⅡ世の薩摩コレクション。その全体像を把握する為に、訪露した私が、彼らの収蔵品の薩摩については輪郭をつけたと自負している。今回の展示会はその集大成である。その中でも一際目を引くのが、「清風」でも度々、紹介している例の袋形大壺である。高さ九〇㎝に達するこの作品は、当時の薩摩焼の技術の粋を極めている。エルミタージュ美術館の記録によれば、ニコライⅡ世の戴冠式の折に島津家当主、島津忠義より贈られた一対の大壺であり、革命前は宮殿の入り口に飾られていたという。
 

現在、来年の沈壽官家のパリ展に出展して頂きたく現在鋭意交渉中である。
それにしても不思議な縁だ。イタリアの陶芸界で、「厚い口と厚い足は世界を旅する」という諺がある。つまり、丈夫な口造りと丈夫な高台造りの物は壊れにくい、という意味だ。約百二十年前、一〇〇〇〇キロ離れた苗代川で十二代 沈 壽官によって造られた大壺は東京にいた弟・沈 壽誠の手により絵付けが施され、東京の島津屋敷に運ばれ、横浜の港を船出した後、陸路か海路か、つまりはサンクトペテルブルグの宮殿に届いた。その後、二度に渡るロシア革命を生き延び、こうして曾孫の私と再会した。
鉄のカーテンと呼ばれた不思議の国で十二代の仕事が在り続けた事に、驚き、感謝を思わずにいられない。

ロシアとの交渉は複雑で、理解できない事が多い。なかなかルール通りにはいかない。「酒を酌み交わすのが一番だ」と、通訳の池上女史は言う。しかし、ウォッカでロシア人と戦い勝利を納めるなぞ、果たして私に可能だろうか?日露海戦とは比較にならぬ賭けだ。
更に通訳の池上女史は「ロシア人は氷の仮面につけた熱血漢だ」とも言うが、未だ未だロシアに浅い僕には理解が及ばない。
 確実に言えるのは、彼らは十二代 沈 壽官作品を評価している、という事実だ。そうでなければエルミタージュ美術館の冬宮の間で展示会など行うはずがない。つまり、それは、目に見えないどこかで、僕と彼らが繋がっている道が存在する事を証明しているのだ。

ページの先頭へ