直心直伝

2010年3月21日

 ソウル仁川空港を発った機体は、中国東北部上空からモンゴル・ウランバートル上空を飛び、やがてアルタイ山脈を越えた。九月の中旬というのに機窓から眺めるアルタイ山脈は一面の雪である。この巨大な山脈を越えるとシベリア平原だ。
ひたすらに広いロシア・シベリア平原、この圧倒的且つ、無駄に広い平原の中に、水道も無い暮らしをしているロシア人達の村や近代的軍事施設が点在する。
シベリア平原を飛び、やがて飛行機はウラル山脈をも越え、ヨーロッパ平原へと達した。太陽を追いかける様にして飛ぶ為、夕暮れの状態が延々と続く。
約八時間の飛行の後、サンクトペテルブルグ空港に着いた。空港には、エルミタージュ美術館研究員のアーニャ・エゴロワがポンコツのバスで迎えに来てくれていた。気温は摂氏五度、空港の外はひんやりとしていてロシアの男達が黒いジャンバーに身を包みたむろしている。車は、美術館近くのホテル・グリフォンへ。グリフォンとはスフィンクスと同じで王の墓を守る一対の羽のある獅子である。遥か昔、イランの王から贈られた事があるらしく、それを模した一対の獅子を小さな運河にかかる橋の袂に巨大なモニュメントとして置いてある。ちなみにホテル・グリフォンの受付は四階にあり、超重量のトランクを持って、四階まで階段を登る。
 
このサンクトペテルブルグは以前、一時期その名をレーニングラードと言ったが、今はサンクトペテルブルグだ。ピョートル大帝がヨーロッパの町を模して、造営した、世界遺産にも指定されている美しい街である。
 ここにあるエルミタージュ美術館は世界四大美術館の一つに数えられ、その収蔵品の数はというと、一点を一分間見た場合、約五年間かかると言われる程の大変な量である。その二階には、六十年前、第二次世界大戦の時、ベルリンから忽然として消え、長くその所在が不明であった印象派の絵画達が、ガラスのカバーもなく、外光に晒される形で飾られている。これは、どういう意味なのかというと、ベルリンから消えた印象派の絵画達が、突如、サンクトペテルブルグで発見された事により、当然、世界はベルリン陥落の折、ソ連軍がベルリンから持ち出したものと考えた。それに対してロシアは何も答えない代わりに、天井の低い二階、つまり宮殿の女中部屋にあたる部屋に、外光に晒した状態で飾る事で、我々はこれらの絵画に、何の愛着も尊敬も感じていない、との意思表示をしているのだ。
面子の犠牲になった名画達こそ、いい迷惑だ。ロシアにはこの様な顔がある。
 
さて、このエルミタージュ美術館が現在、薩摩焼展を開催中である。三年前、日露修交一五〇年を記念したTV番組の取材中発見されたエルミタージュの地下に存在したニコライⅡ世の薩摩コレクション。その全体像を把握する為に、訪露した私が、彼らの収蔵品の薩摩については輪郭をつけたと自負している。今回の展示会はその集大成である。その中でも一際目を引くのが、「清風」でも度々、紹介している例の袋形大壺である。高さ九〇㎝に達するこの作品は、当時の薩摩焼の技術の粋を極めている。エルミタージュ美術館の記録によれば、ニコライⅡ世の戴冠式の折に島津家当主、島津忠義より贈られた一対の大壺であり、革命前は宮殿の入り口に飾られていたという。
 

現在、来年の沈壽官家のパリ展に出展して頂きたく現在鋭意交渉中である。
それにしても不思議な縁だ。イタリアの陶芸界で、「厚い口と厚い足は世界を旅する」という諺がある。つまり、丈夫な口造りと丈夫な高台造りの物は壊れにくい、という意味だ。約百二十年前、一〇〇〇〇キロ離れた苗代川で十二代 沈 壽官によって造られた大壺は東京にいた弟・沈 壽誠の手により絵付けが施され、東京の島津屋敷に運ばれ、横浜の港を船出した後、陸路か海路か、つまりはサンクトペテルブルグの宮殿に届いた。その後、二度に渡るロシア革命を生き延び、こうして曾孫の私と再会した。
鉄のカーテンと呼ばれた不思議の国で十二代の仕事が在り続けた事に、驚き、感謝を思わずにいられない。

ロシアとの交渉は複雑で、理解できない事が多い。なかなかルール通りにはいかない。「酒を酌み交わすのが一番だ」と、通訳の池上女史は言う。しかし、ウォッカでロシア人と戦い勝利を納めるなぞ、果たして私に可能だろうか?日露海戦とは比較にならぬ賭けだ。
更に通訳の池上女史は「ロシア人は氷の仮面につけた熱血漢だ」とも言うが、未だ未だロシアに浅い僕には理解が及ばない。
 確実に言えるのは、彼らは十二代 沈 壽官作品を評価している、という事実だ。そうでなければエルミタージュ美術館の冬宮の間で展示会など行うはずがない。つまり、それは、目に見えないどこかで、僕と彼らが繋がっている道が存在する事を証明しているのだ。

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