「京都と薩摩」

2019年6月29日

「京薩摩」という言葉をご存知だろうか?
千年の王城の地「京都」一方、黒潮に洗われる本土最南端の「薩摩」
二つの異なる文化、風土を持つ地名を合体させた言葉。一見、木に竹を継いだ印象を受ける事だろう。

「京薩摩」とは19世紀、京都で焼かれた輸出向けの色絵陶器の事である。
ちなみに色絵陶器というと、京都には17世紀、野々村仁清という日本陶芸界初の「陶芸家」が居た。作品に初めて自分の名前を記した方であり、色絵陶器の祖である。

さて、「京薩摩」は一体どうして誕生したのだろうか?

1840年、日本の遥か南方で英国と清国の間に戦争が始まった。
「第一次阿片戦争」である。

英国は清国との貿易不均衡を埋める為に、インド産の阿片を組織的に清国に売り込む三角貿易を始めた。それに対して清国は、阿片常習者の激増に伴う社会不安を防ぐための取り締まりを強化。その事に端を発する戦争である。

善悪で言えば。明らかに英国が「悪」である。「議会制民主主義生みの親」とされる英国の所業とは思いたくないが、事実だ。

一方その当時、日本や朝鮮国は清国を永遠の帝国と仰ぎ見ていた。その永遠の帝国が英国の近代兵器の前に、いとも簡単に敗れ去っていく。その様を固唾を呑んで見ていた薩摩藩主島津斉彬は欧米のアジア植民地化への明確な意図を知り、震撼した。
「次は必ず自分達の番だ」と。

そこで、斉彬が始めたのが「集成館事業」と呼ばれる一大殖産興業事業であり、それに伴う東洋最大のコンビナート建設であった。
国内に先ず物を満たし、同時に軍事力を身につけて、然るのちに公平な貿易を行うとした「殖産興業」「富国強兵」は薩摩藩の二大方針であり、それは明治新政府に政策として引き継がれていく。
従ってその事業範囲は決して軍備中心ではなく、あくまで民政に柱を置くもので、実に様々な開発 が行われた。発電、製鉄、造船、紡績、医薬品、ガラス、バイオエタノール、果てはモールス信号に至るまで、その裾野は広がりを見せる。
その中で、薩摩の陶工たちに下された使命は二つ。
一つは1700度に達する反射炉の建設に必要な耐火煉瓦の生産であり、もう一つは西欧を新市場と捉えた上での装飾性豊かな輸出向け室内装飾陶器の製造である。
(既に鍋島藩に於いては東インド会社を通した肥前磁器の輸出で年間10万両の利をあげていた)

その結果、従来の白土に透明かつ微細な貫入をもつ釉薬をかけて焼き上げた後に、京都から学んだ彩色技法を改良した上絵を乗せる「薩摩錦手」と呼ばれる絢爛な色絵陶器が誕生する。

薩摩錦手作品は、薩摩が幕府とは別に「薩摩琉球国」として単独出展したパリ万国博(1867)で初めて世界に紹介された。それまで東インド会社からもたらされていた磁器とは全く異なる表情の色絵陶器は新たな興味の対象として欧米の知識人を魅了し、高い評価と関心を得ることになる。
やがて、欧米人達は日本の多種多様な陶磁器を整理分類する上で、磁器を「イマリ」陶器を「サツマ」と大別した。極めて大括りな分類ながら「サツマ」が日本陶器の代名詞になったのである。
これは取りも直さず、万博という世界的舞台で、薩摩が「日本は徳川家のみの国ならず。もう一つ薩摩という別の統治機構が存在するのだ」というアピールを行った事による外交的勝利の所産である。

国内において、この磁器、薩摩軍は箱根に駐屯、江戸城総攻撃の命令を全軍で待っていた。
そして同時に12000キロ離れたパリでの万博単独出展により、徳川家による首都防衛の最後の切り札とも言えるフランス政府との関係にクサビを打ち込んだのだ。
薩摩は国内では武力で、海外では外交力で徳川幕府を圧倒していた。

欧米の「まだ見ぬ不思議の国、日本」への関心は高く、ジャポニスムの流行にも乗り、やがて大量の「サツマ」の発注が鹿児島に舞い込む事となった。
しかし、量産の基盤施設を持たない薩摩に対する注文の始末に困った商人達は、その期待に応える能力を有する京都に頼ることになる。

しかし、これは京都の陶業界に於いても追い風であった。彼等は自らの技術を下地に世界的な人気を博した薩摩焼を、薩摩に代わって生産することにより、京の手技の妙を世界の表舞台に向けて送り出す事となったからだ。又、時代の混乱期において、極めて大量の仕事が舞い込んできた訳であり、ここに加賀から流れてきた優秀な職人達も又、生活の糧を得ることになったのだ。

ここに初めて鹿児島産ではない「サツマ」が誕生したことになる。流通革命の始まりだ。

主たる生産地は平安神宮道を下り、三条通と交差する粟田地区である。
この一帯は当時、名工錦光山宗兵衞らを中心とする京焼の一大産地であり、東山界隈の清水焼とは勢力を二分する存在であった。

居留地貿易に新たな活路を見出した商人達は横浜、神戸の港を経て、大量の欧米向け「サツマ」を送り出すようになる。
それらは膨大な量にのぼり、鹿児島でささやかに生産されていた薩摩焼を遥かに圧倒した。
これらの生産は初期的には京都で始まるが、やがて長崎、神戸、大阪、横浜、東京、金沢へと拡大していく。
そして、それらは居留地勤務の外国人商人の浅薄な東洋趣味を動機にした物も多数含まれており、まさに玉石混交の商品群であった。中には島津家や将軍家、皇室の家紋までが描かれるものも登場してくる。
日本が朱印船貿易以来、数百年ぶりに経験する海外ビジネス。そこには、商標権もブランド登録も、経済秩序もない、ひたすら生き残る為の凄まじい生存競争のみがあった。

「京薩摩」はその激動の時代、初めての封建制度の垣根を超えて誕生した色絵陶器といえよう。
和と洋が、或いは薩摩と京都が融合するのではなく、折衷した世界。そこには一種独特でエキゾチックな表情が現れる。
歴史による多くのしがらみを抱える京都と、維新により積極的に旧来の価値観を生まれ変わらせようとする薩摩、そこにさらに歴史性のない海外との窓口、横浜が加わって織りなすトリコロールは、明治をシンボリックに象徴するものだ。

京都と薩摩、この二つの地域は維新の激流の中を、江戸期に培った技を下地に、新しいスタイルで泳ぎ切った歴史を共有する関係であったのだ。

ページの先頭へ