直心直伝「明治に挑む」

2018年7月19日

 
後の14代ロシア皇帝であり、帝政ロシア最後の皇帝となるニコライ2世が世界旅行に出掛けたのは1890年(明治23年)10月、ニコライ23歳の事であった。
当初、イギリスと覇権を競っていた極東に行く事を渋っていたニコライであったが、弟のゲオルギオスが同行する事でその気になったと言われている。豪傑として有名な父アレキサンドル3世と違い大変ナイーブな人物だった様だ。(弟は途中風邪で体調を崩し、帰国してしまう)
 
そして明治24年4月27日ついに日本到着。長崎に到着したニコライ2世一行を出迎えたのは皇室きっての外交通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)だった。国賓として訪れたロシア皇太子の日本滞在を成功させる為、明治政府が選んだ接遇団長である。
そして、10日間に及ぶ長崎滞在を無事に終えた一行は同年5月6日、鹿児島湾に投錨した。
 
鹿児島県知事山内堤雲は、旧薩摩藩主島津忠義にニコライ2世一行の接待を依頼した。豪華なキャスティングである。
当時のニコライ2世の日記には次のように記されている。
 
「御殿に着き、靴を脱ぎ、スリッパを履き、手を洗った。理想的な清潔さである。部屋の中は全て竹で造られている。ごく薄い壁に障子。薩摩公は、私たちの姓名頭字の組み合わせ文字の入った美しい壺(二尺ばかりの薩摩焼花瓶)をゲオルギウスと私に献上してくれた」。
 
これが島津忠義からの最初の薩摩焼の贈り物である。山吹に桜、菊などをあしらった作品であり、これらの作品もまだロシアに現存している。
勿論それ以外にも市中で煙草や古器物、名産器類などを購入している。
 
この時の島津家の接待ぶりは実に古式ゆかしく且つ堂々たるものだった様で、忠義は「犬追物」なる武者行列を披露したし、奥方や家中の女性達も、刺繍入りの紋付姿で礼節を尽くしたという。ニコライは幾度も「ありがとう、ありがとう」と述べたという。更に島津忠義はニコライ2世が退去するに当たり、鉢に咲いていた薔薇の花を折ってニコライ2世に差し出し、ニコライはそれを胸のボタンに差し、再び握手したという。
 
ところで、この島津忠義という方は実は大変に保守的な人物で、亡くなる時までチョンマゲを切らなかったという人だ。
 
一方のニコライは鹿児島を去った後の5月11日、滋賀県の大津で警護していた巡査、津田三蔵によりサーベルで右耳上部に裂傷を負わされるという「大津事件」にみまわれる。その後、帰国してからはそれが原因で頭痛に悩まされた事から徐々に親日家の部分が消え去り、悪感情が芽生え、日本人を「猿」と呼んで憚らなかったという。
 
この保守主義者である島津忠義と、28歳年下で日本人を「猿」と呼んで軽蔑した皇太子ニコライの間の年の離れた親密な交流をどの様に理解したら良いのだろう。
 
ニコライが大津で惨禍にみまわれた事を知った忠義は直ちに上洛しニコライを見舞った。又、ニコライが父アレキサンドル3世の命により、上京を取りやめ帰国する際も、再び見送りに来ている。とりわけ、ニコライは薩摩で見た「犬追物」に強く関心を惹かれたらしく、その事を知った明治天皇が犬追物を題材とした織物をニコライに贈ったといわれる。
更に忠義は1896年(明治28年)5月26日、モスクワのクレムリンで行われたニコライの戴冠式に一対の薩摩焼袋型大壺を贈ったのだ。忠義が亡くなる1年前のことである。
 
遥か遠くの極東の小国、更にその南の果ての地の年上の友人から届けられた薩摩焼史上最高傑作ともいえる1メートルに近い豪華な一対の大壺。正に忠義最期の贈り物である。
私の曽祖父、12代沈壽官は忠義公の命を受け、忠義公の誠意を作品に込めるべく全身全霊で制作に取り組んだ事と思う。今と異なり、電気も温度計も無い時代である。制作が難航を極めたことは言うまでもない。正に、命懸けの仕事であった。
この戴冠式には世界の主要国がモスクワに大物特使を派遣しているが、日本からも伏見宮貞愛親王と特命全権大使山県有朋が出席している。
ただ、多くの贈答品の中でもこの忠義からの最期の贈り物はニコライを喜ばせた様で、その後、サンクト=ペテルブルクの宮殿の玄関に一対で置かれることになる。
 
忠義という人物の徹底した篤実さは、幕末の動乱期を過ごした薩摩藩主としての一貫した生き様であったのだろう。そしてその事が確実にニコライの心を得たのだと思う。
 
私もイタリアや韓国で暮らしたことがある。その中で学んだ事だが、危険な事は、相手の阿吽の呼吸を知らぬまま、安易に相手国仕様に自らを変える事だと思っている。自らの生まれ育ったアイデンティティというものを失わない事と、中途半端に相手のアイデンティティに踏み込まない事が大切だ。そうでないと、相手の目には奇異な人に写ってしまう。
明治に入り、攘夷が文明開化に変わる中、日本中が俄かに欧化していった。髷を切り、洋服に着替え、靴を履き、肉を喰らい、ダンスに興じる。ニコライが「猿」と呼んだのは日本人の矮小な体躯の事ではなく、西洋を必死に真似ようとする当時の日本人の在り様を指していたのかもしれない。
 
忠義はそういう意味で徹底的に上質な薩摩人であり、磨き上げられた薩摩の美意識を貫いた。だからこそ、ニコライに理解されたのである。俄仕立ての国際儀礼など足元にも及ばない、正に日本の心だった。
真の国際人というのは、相手を理解しながら、自らのアイデンティティを失わない人の事を言うのであって、単に外国語が堪能であるとか、海外経験があるとかといった表面的な事などではない。
 
ニコライからも貴重な物が忠義に贈られている。特に白鷲勲章と言うものは、ロシア皇室と深い交流のある者にのみ贈られる栄誉ある勲章である。下世話な話だが、現在オークションに掛けるとなると、スタートが12万ドル(1300万円)からの入札になると言われている程の価値ある勲章である。
 
大津事件、三国干渉、日露戦争と日露の外交関係は複雑化していくが、その中で忠義とニコライの交流が果たした意義は大きく、その外交の重要な道具としての薩摩焼の存在があった。 
 
今年はニコライ2世没後100年であり、島津忠義没後121年となる。
彼等は天に召されたが、大壺はひび割れながらも生き残り、ロシア革命、ニコライの死、日露戦争、スターリン時代を見つめつつそして蘇った。
 
今回、ニコライ2世の戴冠式に贈られた一対の大壺に挑む機会を頂き「明治に挑む」事が出来たことは又とない喜びであった。その中で教えられたことは、幼い頃から教えられてきた「出来る事を一生懸命にやりなさい」という事だけでは殻を破れないという事だった。
「やらされる事」により、新しい境地を知ることもある。何故ならば、人は知らず知らずの内に、出来る事しかやらないからである。
 
出来得るならば、「自分にやらされる」そんな意識を持ちたいものだとしみじみ思う。
 
作品を、眺めながら忠義とニコライ2世の穏やかな笑い声が聞こえてきたような気がした。そして、傍で微笑む12代沈壽官の姿も。

 

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