直心直伝

2016年4月29日

二十六年前の私です。

資料整理していたら出てきました。

隣の国からアンニョンハセヨ!!

昨年、十二月十一日、韓国での八ヶ月間の修業を終えて帰国致しました。この季節になると毎朝、氷点下迄気温が下がるために、前日造った大壺が、胴体から縦にピリピリと裂けるのです。こうなると工場は、翌年の二月下旬まで冬ごもりとなります。韓国の冬は厳しく、南国鹿児島に育った私には、到底、想像もできないものでした。大河は凍りつき、山々は一面の銀世界です。

私が韓国へ渡ったのは三月。未だ、彼の地の風景は茶色の荒れた景色でした。やがて田に水が入り、稲が植えられ、工場の前に広がる水田が一面の緑の絨毯になった時、ようやく私も現地に慣れて参りました。それから大雨、大風の日々、そして炎天下の夏が過ぎ、金色の稲穂が実り、やがて、韓国の道路脇に刈り入れた米と赤いとうがらしが並び干され、各家庭で近所の人々が集いキムチを漬け込む十一月まで、共に過ごせたのです。今ふり返ってなんと素晴らしい日々だった事でしょう。

仕事は大変辛いものでした。毎朝三時から夕方六時まで渾身の力をふりしぼっての仕事でした。全身に力があふれ、筋はキリキリと痛み、関節はどんどん太くなりました。一日五回の食事でも未だ足らず週一回の風呂に感謝し、炎天下の風を満喫しました。言葉の通じぬ世界で、狂ってしまわぬ様、、本を読み、自分に問いかけ、たどたどしい言葉で友人をつくりました。その中で私の身体の中に、この韓国の人々と同じ東北アジアの大陸の血が流れている事を実感しました。この国には僕よりも、もっと僕らしい人々がが数多くいたからです。日本で暮らし、日本で働くうちに、言葉をもって自分の立場を武装し、その存在を他に立証する必要のない社会に立ち帰って、本当に一人の人間の男性でなく、人間という名の動物の雄の強さを教えられました。そこには、私達日本人がお行儀よく生きていくために、忘れてしまいかけている涙、怒り、笑いがそこかしこに溢れていたのです。

全ての人間にとって、長所とは短所であり、又短所とは長所であると思っています。今、日韓の間にある相互不信の念は、そういった考え方のできない事にも一因がある様に思えました。私をも含めて、心のどこかで韓国のナショナリティを背負って生きていかざるを得ない人々がいて、このファジーな人々こそが、言葉にできない言葉をもっている様な気がします。三百九十年前の祖国。そこには、祖国を見ずに異邦人として生きてきた二代目からの思い込み、つまりは故郷はもはやその人達の心の中にのみ存在する夢の国であった様に思います。国境も、社会も全て、時の流れとともに、人間が互いに影響しあって作り又、変わっていくものです。

今一度、再び韓国を旅したい。そして、もう日本では見られなくなった、本当に屈託のない子供達の笑顔、そして、精悍な青年の肉体と眼光、深いしわを刻んだ優しい老人達の眼差しにふれてみたい。もう一度彼らと、思いきり口論したい。こっそりと一緒にいたずらしてみたい。てれた子供の様な心に会いたいのです。

--◆--◆--◆--◆--◆--◆--

思いがけず懐かしい原稿が出てきて、我ながら目を細めて読み返した。今の私の韓国に対する基本がこの時にできていた事を知った。帰国した直後の原稿だから、ホヤホヤだが、愛情に満ちている。あの頃からすると、26年の歳月は随分韓国を変えたように感じる。否、民族というのは、そう容易く変わるものではないとすると、表面的には、ということが。そう言う自分も成長したのだろう。

この原稿からは、当時の私の青年としての気負いと気合いが感じられ少し面映い。ただ、実体の見えない韓国という国と、がっぷり四つに組んだ格闘の残り香はする。

最初の三ヶ月は韓国が嫌いで仕方が無かった。何もかも日本と違う事にとにかく苛立っていた。言葉が通じないジレンマと、例え通じたとしても叶わない壁。これは、イタリアで経験した時と同じだった。

やがて、少しずつ慣れてくると色々な発見や気づきが生まれてくる。誰かに教わったのでは無く、自分の発見は自分なりの韓国観を作ってくれる。いつしか、可笑しさや、愛おしさを感じられる様になるのだ。その国を笑って許せる様になれば、もうしめたものだ。

異なるものと対峙し、相克を乗り越えた時に新しい力が産まれるのだ。従って、戦わない者に力は産まれない。

そんな、感想を持った懐かしい原稿との再会だった。

ページの先頭へ