名誉総領事就任

2021年6月28日

 去る4月6日、我が家の表座敷において駐鹿児島大韓民国名誉総領事館の開館式が行われました。
 一昨年、父が他界し名誉総領事館は閉館していました。
 父の生前から、「十五代も総領事になるんでしょう?」と幾度か尋ねられましたが、その都度「いや、これは世襲ではないので」とお答えしていました。
 この度、韓国政府から新たに日本政府に推薦があり2月9日に日本政府の許可がおり、その日が私の正式な就任となりました。

 開館式は駐福岡大韓民国総領事はじめ、塩田鹿児島県知事、県議会議長など、様々な要人の列席を賜り、無事に終えることが出来ました。
 政治的にはトラブルの絶えない両国でありますが、その様な時期に拝命したのも何かの意味があるのかもしれないと、自分に言い聞かせています。

 私の持論として「G(政府)to G(政府)」は面子で交流を断絶する事がままあるし、「C(企業)to C(企業)」は利益が無ければ交流は消えます。しかし「P(人) to P(人)」の交流は面子や利益で絶える事はない。政府同士が断絶しても、人と人が繋がっている、そこに無数の細い友情というパイプがある事が大切なのだ、と考えています。
 権力とメディアが結託すると国民の意識操作は簡単にできるのです。更にはSNSを通じて、出処不明の怪情報が一人歩き。そんな環境の中で両国の国民は 一見、極めて偏狭になった様に思えます。
 その様な移ろいやすい景色を目で追い続けると。大切な「芯」を見失ってしまうものです。

 父十四代の言葉に「回るロクロの動かぬ芯」というものがあります。
 私が、鹿児島の中学を出て東京の高校に進学する時、父に言われた言葉です。
 動くものに幻惑されると、自分も振り回されてしまう。どんなに周囲が高速で回転してもその芯は決して動く事はない。そこに身を置くべきだ、という教えでした。

 政治的には近さ故もあり、面子もありでなかなか先に進まない両政府ですが、私がこの時にこの任命を受けた大きな理由は、私が現在務めている「高円宮日韓文化交流基金」の選考委員としての経験でした。これは両国の相互交流を顕彰するもので、文化交流、学生交流、スポーツ交流など実に様々な交流が存在します。その中でも何より心を打たれたのは障害者交流でした。
 日本の盲学校と韓国の盲学校の交流、脳性麻痺の人々同士の交流、ろうあ者の交流、車椅子の方々の交流。
 これらは健常者の支えがないと不可能であり又、それらを支えるスポンサーが必ず必要なのです。
 そして、これらの交流は30年以上続けられており、日韓の政治的軋轢の中でも決して途切れる事はありませんでした。

 声高に相手を罵倒する事を「愛国」だと勘違いしている人々の知らないところで、社会的弱者と言われる方々が本当に静かで、ささやかな真の魂の交流を続けておられます。そこには互いに敬いの心があります。そして、それを静かに支えている人々がどれほど両国に数多くおられることか、、、

 私が今回、この名誉総領事の任を拝命した理由は、この人達の存在なのです。
 果たして何が出来るが分かりませんが、出来うる限りの協力を行なって行きたいと考えています。
 何卒、宜しくお願い申し上げます。

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仕組み

2021年3月24日

 先日(令和3年1月14日)、霞が関の文化庁長官室で「文化庁長官感謝状」を拝受した。
 初めて訪れる霞が関官庁街に田舎者は大いに道に迷い、ようやくギリギリに文化庁に辿り着いた。

 感謝状の内容は「陶芸を通した国際交流に於いて我が国の文化を世界に広めた」という内容の宮田文化庁長官からの感謝状だった。私以外には、歌手の安田祥子さん(由紀さおりさんの姉)、日本画の藤森先生、彫刻家の一色先生だった。
 文化庁長官室に入り感謝状を受け取った後、宮田文化庁長官の制作によるドラを打ち鳴らす。宮田文化庁長官は金属工芸家である。これは、どの方にもやってもらう儀式だそうだ。(さすが民間人だ、、)

 僕は、これまで日展や日本工芸会という既存の組織に属さず活動してきた。
 その理由は、父十四代が業界団体のピラミッドの中で生きる事を拒否していたからだ。
 「第三者が評価するなら、いざ知らず。同業者が評価すると、そこには必ず様々な人間関係や情実が生まれる。更にその中で組織遊泳術に巧みな者や声の大きい者がピラミッドの上部を支配して行く。」という理由だった。
 必ずしもそれだけであったかは知る由も無いが、日本工芸会に所属していないと、無形文化財(人間国宝)にはなれないし、同様に日展に所属していないと芸術院会員にはなれない事は業界の暗黙の了解になっている。

 だから、知り合いに「沈さんはいつ人間国宝になるの?」と無邪気に聞かれるが「一生なれません!でも、天然記念物にはなれるかもよ!」と、ギャグで応えている。

 そんな父の元で育った私は、父ほどの感情は無かったが、何となく父の言い分も理解はできたし、その父の下で私がいずれかの団体に所属する事ははばかられた。従って、色々な巨匠の先生方からお声がけ頂いたが、結果的に何処の組織にも依らずにこれまでやってきた。
 (因みに私が会長を務めている鹿児島陶芸家協会は任意団体であり、県や国から定期的に経済的な支援を受けているわけでは無い。)

 以前、イスタンブールのトプカピ宮殿美術館アジア部の学芸員が薩摩焼の調査に来た時、その話になり「僕はフリーなのですよ」と話したら「いえ、貴方はインディペンデント(独立)です!」と言われたことがある。何故か父を褒めてもらった様で嬉しかった記憶がある。

 父が晩年、国から「旭日小受章」を頂いた時、当時の県知事だった伊藤祐一郎氏から言われた言葉がある。
 「今回の受章は絶対的な価値観によるものです。本来賞勲と言うのは国の体制に尽くした人に贈られるものです。つまり官吏や教員、業界団体から推薦された方に与えられる相対的なものなのです。
 お父上の今回の受章はそれとは異なる絶対的な価値観の中での受章ですから、価値あるものなのです」と言われた。
 有難い言葉だった。

 今回の宮田文化庁長官からの感謝状の拝受に対して、私の母校早稲田大学の後輩達は「これまで独立の道を歩いて来た十五代がついに官の軍門に下ったか。」と冷やかされた。
 しかし、僕は「賞金も勲章も無い、ただ、紙だけだよ。同じ賞なら「菊花賞」とか「皐月賞」の方が賞金はあるね。」と笑う。

 世の中には「仕組み」というものがある。
 出来た当初、それぞれの組織は高い理想を叶える為に結成された組織であったはずだが、長い時間の経過の中で前例、慣習というものに少しずつ支配されていく。
 やがて、そうなってしまった仕組みは時を経て益々、堅牢になって行く。
 そうなると、簡単に解体なぞ到底出来ない鉄の組織になるのだ。

 その中で今回、宮田文化庁長官から頂いた感謝状は在野に住む者からも選ぶ事はあります、という「仕組み」に対しての国からの一石ではなかったかと、ふと思った。

 感謝状は未だ輪ゴムで巻かれたまま、僕の本棚に置かれたままである。
 驕る事なく、前を向いてやるべき事をゆっくりと進めて行きたい。

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「啐啄同機」(そったくどうき)

2020年12月22日

 以前、清風誌上で述べたカフェの建設計画はコロナの影響で一時頓挫していたが、やはり初志貫徹、改めて取り組む事とした。

 物を作る事は未来を信じる事だと考えたからだ。
 計画を立てると希望が湧くものだ。

 手始めに建物の庭に繁るであろう木々の植栽に取り掛かった。
 自然の山中に存在する木々のみで雑木林を作ろうと考えた。

 面白いもので、そういった木々の栽培農家がちゃんと居て、市場もあるのだそうで、知らなかった。

 その作業の中で「フジバカマ」という植物を植えることになった。庭師の鮫島君が「沈さんの好きなアサギマダラが来るかも知れませんよ」と言うからだ。子供の頃からの憧れの蝶でテレビでしか見た事が無かったので、是非植えてと頼んだ。

 かくして、彼が愛用のオンボロトラックにフジバカマを積んで我が家に来たのだが、出迎えた私に彼が笑いながら空を指差した。
 見上げると、なんと憧れのアサギマダラがトラックの上を既に舞っているではないか。やがて蝶は円を描きながら降りて来て、トラックの荷台のフジバカマの花に留まった。
 昆虫少年だった僕が一度も見た事が無かった憧れのアサギマダラが、かくも簡単にやって来たのだ。

 なんということだ。

 近づいても逃げない。花に夢中の様だ。
 花の香りを嗅いでみたが、何の香りもしない。まるで夢を見ているようだった。

 そこで県立博物館に電話した。

 博物館の女性の先生が仰るには、どうやらフジバカマからはアサギマダラの好む独特のフェロモンの様なものが出ていて、上空を南の島に南下する為に飛翔しているアサギマダラの触覚に反応するとの事だった。
 何が何やらサッパリ分からない。

 かなり高いところを飛び、遠くは台湾迄旅をする(らしい)アサギマダラが、そのフェロモンを感じて降りてくるというのだ。
 人間には及びも付かない能力だ。

 その後、植えたフジバカマには度々、アサギマダラやタテハチョウが来るようになったが、鮫島君がある日、僕にアサギマダラとタテハチョウの羽だけを見せた。

 「沈さん、カマキリにやられてましたよ。カマキリは何度も失敗してましたが、フジバカマの花の真下に潜んで、、」と。
 フジバカマを植え、憧れのアサギマダラが飛来し、カマキリが腹を満たした。カマキリも又、生きなければならないのだが、僕の心中は複雑だった。(ちなみに僕はスズメバチがカマキリを襲っているところを見たことがある)

 それにしても、フジバカマとアサギマダラの出会いの興奮は冷めない。

 禅の言葉に「啐啄同機」(そったくどうき)と言う言葉がある。
 これは薩摩焼400年祭の時、開催された日韓閣僚懇談会に来日した金鐘泌国務総理が私の父に乞われて揮毫した言葉であった。
 見事な書である。

 意味は、卵の中のヒナがいよいよ殻を破って外に出ようとする時、ヒナの力では殻を破れない。すると、小さなヒナの鳴き声を聞き、親鳥が外側からその箇所を突き、小さなヒビを入れてあげると言う意味である。日韓の関係も互いの願いとするところを、即時に汲み取り助け合う。そうありたいものです、という金鐘泌国務総理の心情であった。
 政争の激しい韓国政界にあり、30年にも渡り中枢で在り続けた大政治家の選ぶ言葉は、やはり重い。

 アサギマダラが登場した時の事を思い出し、この言葉が浮かんで来た。

 目に見えないが相通じる間柄、言葉にしない愛情、そんな忘れていた事に気付かされた驚きの景色だった。

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八月の窯

2020年10月21日

 今年の夏は近年の傾向通り、やはり猛暑だった。

 そんな中、登り窯を焚く事になった。この猛暑の中、六十一歳の誕生日(八月二十八日)に千二百五十度を越す熱を煉瓦越しに受け続けながら、二日間にわたり薪を投入。更に全体をコントロールしながら、焚き上げる事が可能なのか?誕生日が命日になるのでは?
 若い時なら何とか乗り越えられる気がしていたが・・・。
 しかし、頂いた仕事。頑張らねばならない。正直、不安と恐れに満ちていた。

 僕の窯の師匠が、六十歳で窯を引退した時の言葉を思い出した。
 「一輝、六十になったら、窯は無理じゃ」

 窯が始まった。
 お客様の色々な質問を受けながら、窯は進んでいく。九百度迄なら普通に上がる。そこからが駆け引きだ。 窯は薪を嫌がりだし、なだめすかしながら、じわじわと温度を上げていく。千度を超える辺りから「カケ」と呼ばれる薪の大量投入が始まる。窯は黒煙を上げ、窯の窓の隙間からは赤黒い炎が轟音と共に吹き出す。炉圧は上がり、温度は下がる。やがて酸化焼成に転ずるや、反転、温度は上がり出す。この繰り返しだ。
 しかし、何もなければ千二百度迄は大丈夫。
 窯が熟成期に入る千二百度からが、本当の勝負だ。
 ところが、その千二百度を超えて、千二百三十度に差し掛かった頃、
 温度の上昇が止まった。炉圧が上がっている事は、窯の窓から吹き出す炎の激しさから分かる。
 そういえば少し前に窯の中から「ガサッ」という柔らかい音が聞こえた。
 「何かが起きている」不安が胸をよぎりはじめる。更に投入する薪が何かに当たり、入って行かない。燃えかす(オキ)が溜まってしまっているのか?もしかして何処かが崩れたか?
 後方の窯の全ての窓を開けて圧力を抜きながら、投入する薪の数を減らした。膠着状況が一時間程続いた。 温度の代わりに時間を使う事でカロリーを確保する作戦に変更だ。
 応急処置が効いたのか、温度は一時的に千二百七十度迄上昇。このまま、行けるのか?目標の温度帯は千二百六十〜千二百八十度である。
 この中に静に収めたい。
 戦闘機が洋上の空母に着艦する様な感覚だ。(戦闘機は操縦した事はないが、、、)
 不安が交錯する中、窯の火溝をじっと見つめていた息子が「あれは何だろう?」と呟く。
 「?」、、、「少し待て、温度を下げて炎を落とす!」と大声で指示を出す。
 温度は千百八十度まで下がり、真っ白に輝いていた炎が消え、中の様子がうっすらと透き通って浮かび上がってくる。
 前列の三ヶ所が、崩れている。 投入した薪が、台を支えていた足を弾き飛ばし、それが原因で崩れていた。
 その時、頭をよぎったのは中学生の頃の記憶だ。
 父と窯を焚いていた時、やはり同じ様な事が起きた。
 その時、父は火を裏に回そうとしたり、様々な苦心と試みを繰り返した。(かえってそれが状況を悪化させた)
 やがて、「もう良い」と言い窯焚きを終えた。三日後、窯を開けた時の景色は、中学生の僕でも衝撃を受けた程であった。
 火勢で窯の炉壁は焼け落ち、作品は散乱していた。惨状だった。
 千数百点の品物のうち、取れたのはほんのムシロ一枚分だけであった。

 誰も声をかけられない。
 庭に並べられた僅かな生き残り達を、父が黙って縁側から見つめていた姿は忘れなれない。
 僕が薪の投入を減らし、火勢を強めずに温度を維持しながら時間を掛ける判断が出来たのは、その時の父の窯との格闘が頭をよぎったからだ。

 窯出しの日、息子が猛烈な熱さの炉内にジリジリと入っていった。
 取り出される焼き物は未だ熱く、軍手を二枚重ねていなければ、とても持てない程だ。
 崩れた場所は仕方がない。
 それ以外は?
 「お父さん!いいです!」窯の中から息子の弾んだ声が聞こえた。
 ホッと胸を撫で下ろした。
 窯焚きの日は、小雨が降っていた。「親父が冷やしてくれてるな」と思っていた。
 そして、父と同じ事態にみまわれた僕を救ってくれたのは、あの時の父の憔悴した姿であった。

 「人は知識の伝承は出来るが、経験の伝承は出来ない」父の言葉ではあったが、しかし、今回だけはあの時の記憶に救われた。

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「祖父 十三代 沈 壽官について想うこと」

2020年6月25日

 すっかりコロナ一色に塗りつぶされた世界、経験はありませんが、中世ヨーロッパを襲った黒死病(ペスト)の恐怖を想像します。
 さぞかし、恐ろしかっただろう。
 現代、世界の全ては当時より遥かに緊密に繋がっており、我々の静かな美山の里にもコロナ禍の波は押し寄せています。
 政府の「緊急事態宣言」以降、訪れるお客様も居なくなり、受注の電話も無くなりました。
 こんなにも変わるものかと、本当に驚き、寂しく感じました。
 我々の仕事こそ、「不要不急」なのかなぁ。しみじみと考えました。
 空にはウグイスの澄み切った鳴き声に代わり、ホトトギスの鳴き声が響いています。

 「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」
 江戸時代の山口素堂の作ですね。

 目には見えない、しかし、確実に存在する正体不明のものに、ただ怯える事しか出来なく、見えないこれからの不安に、押しつぶされそうになっているのは私だけではないでしょう。
 毎日、先祖の御霊に手を合わせ、昔の写真を眺めていると、色々な事を思います。
 十二代の時には、幕末の激動の末、明治維新、廃藩置県、戊辰戦争、西南戦争と驚天動地の大事件が連続しました。そんな中、藩営工場の主取であった彼は明治8年に「玉光山陶器製造場」を開業しました。
 その後の大活躍は皆さまご存知の通りです。激変する時代の荒波に揉まれながらも、果敢に海外へ雄飛して行きました。素晴らしいスタッフに恵まれ、栄光に包まれた人生でした。
 今、私が思うのは、十二代の長男であった十三代沈壽官(正彦)です。
 彼は17歳の時に父十二代と死別しています。五人の幼い妹を抱えていました。
 薩摩焼の総帥、十二代沈壽官亡き後、工房の熟練の職人の殆どは、若き当主の元から徐々に離れ、鹿児島市内の窯元へと移転して行きました。
 17歳の青年の胸中はどれほどのものだったのでしょう。
 鹿児島一中を特待生で卒業し、七高から京都大学に進んでいた秀才であった、と聞いています。
 その後、高等文官試験(現在の国家公務員上級試験)に受かり、そのまま内務省に入れば、やがては鹿児島県知事になれたかもしれない、と、父は言っていましたが、そこは「沈」の姓では難しい時代でありました。(終戦時の外務大臣である東郷茂徳も私達の村の方ですが、彼は「朴」という姓を「東郷」に変えています。)
 十三代は全てを諦めて、故郷に戻って来たのです。学者肌の方だった様です。
 それに加えて亡き父親への思慕の想いが強かったのかも知れません。
 父十二代の燦めくような繁栄の時代を知る彼にしてみると、一気に暗転、しかも日本は徐々に戦争の時代へと突き進んで行きました。
 焦り、不安、孤独、朝鮮人差別の中、次々と先代の残した資産は消えていきました。
 それでも五人の妹を嫁がせました。
 自分も五人の子供を設けましたが、家業は衰退して行くのみ。戦局は益々悪化して、国民にとって薩摩焼など何の役にも立たない時代になりました。

 事実、我が家でも軍の命令で焼き物製の手榴弾を作らされていました。(床下にあった多くの手榴弾は、一つ残らず父十四代が破棄しました)

 最後に残ったのは、1人のロクロ職人と、時折来てくれる絵付けの先生だけでした。
 それでも十三代は家業を閉じる事はありませんでした。苗代川陶器組合長を40年間勤め、更に、当時の下伊集院村の村会議長も務めていた。(沈正彦の名前で)妻のハマノが農業に精を出していました。コメを作り、芋を植え、鶏を飼い、それ以外は一人の職人といつも仕事場にいました。お金がない時は、伝来の名品を切り売りしながら生計を立てていたのです。

 私が幼い頃の暮らしです。

 何故か十三代はそんな時でも超然としていました。今思うとあの状況下で不思議な程の誇りある姿でした。

「不要不急」

 重要ではなく、急ぎでもない事。と定義されます。
 しかし、文化とは不要なものでしょうか?
 旧約聖書のマタイ福音書には「人はパンのみにては生くる者にあらず」と有ります。
 この言葉は、人が生きる上で精神的な拠り所が必要なのだと伝えています。勿論、それは宗教なのかもしれませんが、音楽、演劇、映画、文学、絵画、彫刻、陶芸、様々な物に心を打たれ、感動する事こそが生きる大切な糧となります。
 「不急」ではあるかも知れませんが、決して「不要」ではないのです。

 いつか、皆様がまた、美山の里に足を運んでいただける日の来ることを、心から願っています。

 歴代が守り抜いて来た薩摩大切な伝統。それは遥かな昔、玄界灘の風濤を超えて朝鮮から伝えられたものです。
 私にはそれを守る責任があるのです。

 また、皆様に親しくお目にかかれる日の来ることを心待ちにしています。

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