「京都と薩摩」

2019年6月29日

「京薩摩」という言葉をご存知だろうか?
千年の王城の地「京都」一方、黒潮に洗われる本土最南端の「薩摩」
二つの異なる文化、風土を持つ地名を合体させた言葉。一見、木に竹を継いだ印象を受ける事だろう。

「京薩摩」とは19世紀、京都で焼かれた輸出向けの色絵陶器の事である。
ちなみに色絵陶器というと、京都には17世紀、野々村仁清という日本陶芸界初の「陶芸家」が居た。作品に初めて自分の名前を記した方であり、色絵陶器の祖である。

さて、「京薩摩」は一体どうして誕生したのだろうか?

1840年、日本の遥か南方で英国と清国の間に戦争が始まった。
「第一次阿片戦争」である。

英国は清国との貿易不均衡を埋める為に、インド産の阿片を組織的に清国に売り込む三角貿易を始めた。それに対して清国は、阿片常習者の激増に伴う社会不安を防ぐための取り締まりを強化。その事に端を発する戦争である。

善悪で言えば。明らかに英国が「悪」である。「議会制民主主義生みの親」とされる英国の所業とは思いたくないが、事実だ。

一方その当時、日本や朝鮮国は清国を永遠の帝国と仰ぎ見ていた。その永遠の帝国が英国の近代兵器の前に、いとも簡単に敗れ去っていく。その様を固唾を呑んで見ていた薩摩藩主島津斉彬は欧米のアジア植民地化への明確な意図を知り、震撼した。
「次は必ず自分達の番だ」と。

そこで、斉彬が始めたのが「集成館事業」と呼ばれる一大殖産興業事業であり、それに伴う東洋最大のコンビナート建設であった。
国内に先ず物を満たし、同時に軍事力を身につけて、然るのちに公平な貿易を行うとした「殖産興業」「富国強兵」は薩摩藩の二大方針であり、それは明治新政府に政策として引き継がれていく。
従ってその事業範囲は決して軍備中心ではなく、あくまで民政に柱を置くもので、実に様々な開発 が行われた。発電、製鉄、造船、紡績、医薬品、ガラス、バイオエタノール、果てはモールス信号に至るまで、その裾野は広がりを見せる。
その中で、薩摩の陶工たちに下された使命は二つ。
一つは1700度に達する反射炉の建設に必要な耐火煉瓦の生産であり、もう一つは西欧を新市場と捉えた上での装飾性豊かな輸出向け室内装飾陶器の製造である。
(既に鍋島藩に於いては東インド会社を通した肥前磁器の輸出で年間10万両の利をあげていた)

その結果、従来の白土に透明かつ微細な貫入をもつ釉薬をかけて焼き上げた後に、京都から学んだ彩色技法を改良した上絵を乗せる「薩摩錦手」と呼ばれる絢爛な色絵陶器が誕生する。

薩摩錦手作品は、薩摩が幕府とは別に「薩摩琉球国」として単独出展したパリ万国博(1867)で初めて世界に紹介された。それまで東インド会社からもたらされていた磁器とは全く異なる表情の色絵陶器は新たな興味の対象として欧米の知識人を魅了し、高い評価と関心を得ることになる。
やがて、欧米人達は日本の多種多様な陶磁器を整理分類する上で、磁器を「イマリ」陶器を「サツマ」と大別した。極めて大括りな分類ながら「サツマ」が日本陶器の代名詞になったのである。
これは取りも直さず、万博という世界的舞台で、薩摩が「日本は徳川家のみの国ならず。もう一つ薩摩という別の統治機構が存在するのだ」というアピールを行った事による外交的勝利の所産である。

国内において、この磁器、薩摩軍は箱根に駐屯、江戸城総攻撃の命令を全軍で待っていた。
そして同時に12000キロ離れたパリでの万博単独出展により、徳川家による首都防衛の最後の切り札とも言えるフランス政府との関係にクサビを打ち込んだのだ。
薩摩は国内では武力で、海外では外交力で徳川幕府を圧倒していた。

欧米の「まだ見ぬ不思議の国、日本」への関心は高く、ジャポニスムの流行にも乗り、やがて大量の「サツマ」の発注が鹿児島に舞い込む事となった。
しかし、量産の基盤施設を持たない薩摩に対する注文の始末に困った商人達は、その期待に応える能力を有する京都に頼ることになる。

しかし、これは京都の陶業界に於いても追い風であった。彼等は自らの技術を下地に世界的な人気を博した薩摩焼を、薩摩に代わって生産することにより、京の手技の妙を世界の表舞台に向けて送り出す事となったからだ。又、時代の混乱期において、極めて大量の仕事が舞い込んできた訳であり、ここに加賀から流れてきた優秀な職人達も又、生活の糧を得ることになったのだ。

ここに初めて鹿児島産ではない「サツマ」が誕生したことになる。流通革命の始まりだ。

主たる生産地は平安神宮道を下り、三条通と交差する粟田地区である。
この一帯は当時、名工錦光山宗兵衞らを中心とする京焼の一大産地であり、東山界隈の清水焼とは勢力を二分する存在であった。

居留地貿易に新たな活路を見出した商人達は横浜、神戸の港を経て、大量の欧米向け「サツマ」を送り出すようになる。
それらは膨大な量にのぼり、鹿児島でささやかに生産されていた薩摩焼を遥かに圧倒した。
これらの生産は初期的には京都で始まるが、やがて長崎、神戸、大阪、横浜、東京、金沢へと拡大していく。
そして、それらは居留地勤務の外国人商人の浅薄な東洋趣味を動機にした物も多数含まれており、まさに玉石混交の商品群であった。中には島津家や将軍家、皇室の家紋までが描かれるものも登場してくる。
日本が朱印船貿易以来、数百年ぶりに経験する海外ビジネス。そこには、商標権もブランド登録も、経済秩序もない、ひたすら生き残る為の凄まじい生存競争のみがあった。

「京薩摩」はその激動の時代、初めての封建制度の垣根を超えて誕生した色絵陶器といえよう。
和と洋が、或いは薩摩と京都が融合するのではなく、折衷した世界。そこには一種独特でエキゾチックな表情が現れる。
歴史による多くのしがらみを抱える京都と、維新により積極的に旧来の価値観を生まれ変わらせようとする薩摩、そこにさらに歴史性のない海外との窓口、横浜が加わって織りなすトリコロールは、明治をシンボリックに象徴するものだ。

京都と薩摩、この二つの地域は維新の激流の中を、江戸期に培った技を下地に、新しいスタイルで泳ぎ切った歴史を共有する関係であったのだ。

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「灯台と船」

2019年4月11日

去る2月1日、鹿児島県歴史資料センター黎明館において、「薩長土肥 現代の陶芸」展が開催された。
これは、私が会長を務める鹿児島陶芸家協会が、佐賀県、山口県、高知県の陶芸家協会にご相談して実現した企画だ。
西日本において、有田焼を擁する佐賀県と萩焼擁する山口県は陶芸界の双璧ともいえる存在だ。その両産地と同じ舞台で戦うには鹿児島と高知の両県は力不足と言わねばならない。
ただ、鹿児島陶芸家協会会長の私としては、それこそが狙いである。強豪を迎えた緊張と恐怖こそが鹿児島を強くするからだ。
相談の為、現地を訪問して現実に当たって砕けろとばかり話してみると、意外にも「やりましょう!」と快諾。胸を貸してくれたのだ。そういう意味では実に有り難い事であった。

 
今回の企画は、明治維新150年、NHK「西郷どん」に沸いた鹿児島の地で当時の薩長土肥の草莽の志士達の活躍にちなんで、現代の陶芸という視点から、維新150年後の現代を照射してみようという意図である。

開催してみると、そこには、150年前の夫々の産地性といった様式はほとんどと言って良い程感じられない。
佐賀には鍋島様式という日本最初の色絵磁器があり、山口県にも茶道で一楽、二萩、三唐津と呼ばれた約束事の枇杷(びわ)色の萩焼がある。高知県には尾戸焼という土佐山内家のお庭焼があったし、薩摩も又然りである。
やはり、予想していた通り「過去を連想させない事が大切である」という現代の工芸界の主張そのものの展示会となった。

オブジェは勿論の事、作品を見て産地を当てることなど到底不可能な作品がズラリと並んだ。
各藩の指導や好みといった歴史の中で積み重ねられ、重層的に高められた過去の様式に沿うものではなく、現在は、あくまでも作者個人の感性の発露の場であるのだ。

僕はその事を悪く言うつもりは無い。何故ならばそれも時代を反映する一つの思考であるからだ。

しかし、元来、日本は封建制度の下、各大名により統治された小国の連合体(日本共和国)であった。夫々がその風土の下、言葉、食物、教育制度、特産品、軍制などを作る中で、所謂「お国柄」といった物が形成されていった。
先代広沢虎造の「石松三十石舟道中」などを聞くと実に多彩なお国自慢、名物自慢が見えてくる。
しかし、明治維新からの150年間というのは、中央集権制の下、全国を標準化、均一化する歳月であった。どこに居ても同じ教育を受け、同じ様な物を食べ、同じ言語を使い、同じ常識を共有できる社会を目指す事であった。
確か、僕が小学生の頃も方言の禁止がいわれ、先輩たちに聞くと地方によっては方言を使った子供は方言札なるカードを首から下げられたと言う。その結果、「お国訛り」「お国言葉」が消えた。

若い頃、父に「君は灯台であらねばならない」と言われた事がある。その意味するところは、「動いてはならない」と言う事である。
岬に立つ「灯台」は決して動かない。その上で四方に光を送るのだ。逆に自由に動き回る船は洋上にあり、灯台の灯りを道標とするのである。つまり「動かない物があるから動ける」のであり、「動くものは動かないものより動ける」のだ。
動かない物が伝統であり、自由な物が現代であるなら、両者は表裏一体の相対的且つ不可分なものであると言える。
例えば、伝統である不動の「灯台」がその灯りを消したとしたらどうなるだろう。その瞬間から、漆黒の闇の中で自由な筈の船達は、自らの位置を見失い一斉に動けなくなってしまうのだ。暗礁の場所がわからなくなるからだ。
つまり、世の中というものは、不自由な物と自由な物が共存しているという事なのだ。

この国はその現実に反して、不自由な様式を不必要なものとして消し去ろうとしてきた。
その上で、オリンピックや万博の舞台となると、慌てて我が国の伝統文化を世界に、と囃し出す。

 
物事には決して動かしてはならない物がある。それ故に動かせる物が見えるのだ。自然風土から生まれる土地柄や、環境、それらが積み重なって出来上がった生活の様式美であり、それを文化と呼ぶ。
それを残さなければならない物である筈だ。
佐賀の人は権威的で、山口の人は理屈屋だ。土佐の人は人の逆をやり、鹿児島の人は大雑把である。それらも風土や自然環境により形成されたものだ。その気質をベースにして、様々な土地の風景が作られてきた。

それらから、不自由・不必要な物として「様式」を消しさった時、これまでの歴史の中で重層的に積み上げられて来た思考は雲散霧消し、様式は単なる表面的な形としか呼ばれない。
その現実の中で、結婚式、お葬式や社会的な儀礼、伝統芸や伝統食、多くのものが消えつつある。

もしかすると、「維新」(これ、新た)という思想、経験が現代の社会を作っている基盤になっているのかもしれない。それは良くも悪くも、積み上げられてきた日本の文化の形骸化であろう。

だとすると、私達は歴史的外圧の中で、仕方なく、大きく道を誤ったのかも知れない。(外圧を与えた西欧は伝統と文化を非常に重んじている)

これから、私たちの国は何を伝統と呼び、何を文化と呼ぶのだろう。
灯台の灯りを消しておきながら、船達に、さぁ、自由に動きなさいと命じているのだ。

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21世紀日韓パートナーシップ宣言に寄せて

2018年10月29日

今年は小渕恵三総理と金大中大統領が1998年に交わした「21世紀日韓パートナーシップ宣言」から20年目に当たる。そして、宣言後初めて行われた日韓交流事業であった「薩摩焼 400年祭」も同じく20年目となる。 
 
薩摩焼400年祭当時、私はまだ15代ではなく、部屋住みのロクロ師に過ぎなかった。
ただ、この400年の区切りを祝う事は亡き13代の遺言であった事から、父は全力でその成功に力を尽くした。
父の持つ政治力、人的ネットワーク、全てを注いだ。願掛けとして、大好きな焼酎も断ち、町の全面的協力と相まって、小さな町の大きな祭りは大成功に終わった。
その祭りを終えて、父は私に家督を譲ったのだ。
沈家初めての生前襲名だった。
私は39歳だった。 
 
私達、若い世代はそのイベントのスタートについて議論を重ね、一つの結論に至る。
それは韓国から火を運ぶ事だった。
初代達が朝鮮から、土を運び、釉薬を運び、又、自らも捕虜となり日本で初めて作った焼き物。
全て朝鮮の素材と技術であり、日本のものはそれを焼く「火」ばかりであった。
この事から、最初の焼き物は「火計り茶碗」と呼ばれている。
そこで、今度は日本の陶土、日本の釉薬、日本の技で作った焼き物を韓国の火で焼こう!その火を貰いに行こう!というわけで、私が訪韓の使者に選ばれた。 
 
紆余曲折を経て、我々は火を運ぶ事になる。
南原の聖なる山「咬龍山」から採火し、それを陶製の火炉に入れ、儒教の儀式をいくつも重ねて漸く日本、鹿児島へ。
南原を出るときは市民達が本当に数多く見送ってくれた。中には自宅の台所の火を持って来てくれたおばさんが、これも持って行ってと、火炉にいれてくれた。
とにかく一大イベントだった。
陸路は釜山まで白バイの先導で走る。信号は全て青。休憩場所には多くの旗が並び、そこの市民達が鐘や太鼓で威勢を挙げる。
ようやく釜山に着くと、釜山海洋大学の白い詰襟の学生服を着たエリート達が整列して迎えてくれた。そして彼等の敬礼の中、練習船「ハンナラ号」に火炉を乗せて鹿児島迄、運んでくれたのだ。フィリピンに練習航海するコースを日本周りにしてくれたのだという。
玄界灘を軍船で渡るのは大変だった。縦に横に大揺れに揺れた。
あまりの揺れに私は動揺して、船長に大丈夫かと尋ねたら「今、済州島と五島の福江島の間にいて、一番揺れるところです。又、高気圧が張り出している為、いつもより激しい」と言われた。 
 
採火の様子から一部始終をテレビ各社が連日放送しているため、鹿児島でも刻々と聖なる火の到着が待たれる仕掛けだ。 
 
玄界灘の荒海を越えて、川内港に入港した。役所の知り合いが一人、桟橋で僕らを待っていたが、船が近づくと「日本が動いたぞー‼」と大声で叫んだのを今でも憶えている。 
 
こうして韓国の火は日本に着いた。万雷の祝福の中、私達は感激のあまり涙が止まらなかった。その涙は単に計画を達成出来た喜びだけでなく、何かもっと深いものがあったと思う。
その炎は今でも私達の村で燃え続けている。
父はその火で焼かれた茶碗を小渕総理に贈った。
ある日電話がなり、誰も出ないのでインスタントラーメンをすすっていた私が出ると「自由民主党の小渕恵三と申します」と現役総理からの電話。
いわゆるブッチホンだ。「先日、お父様から頂いた記念の茶碗をアメリカのクリントン大統領に差し上げたいのですが、お父様にお許しを頂けますか?」と。
私は直立不動の姿勢で「結構です。ありがとうございます。父に伝えます!」と話すのがやっとだった。 
 
そもそも、私の初代、沈当吉は文禄の役の時は晋州城(慶尚南道)で日本軍と戦った朝鮮軍城兵であった。僅か3800で2万の日本軍の猛攻撃に耐えたのだ。 
 
しかし、その後の慶長の役での南原城の攻防は悲惨を極めた。千名の城兵に、三千人の明軍、それと7千人の市民である。二百年の平和を謳歌していた計一万一千の俄か作りの守備隊に、戦国時代を生き抜いた日本軍精鋭五万六千人が襲いかかったのだ。南原城は3日で落城した。とりわけ、日本軍の中の島津軍は精強で、朝鮮において、陸戦無敗を誇っていた。この凄惨な戦いの死者は一万を超えるといわれ、現在南原には「万人義塚」と呼ばれる円墳がある。
私の祖先はこの島津軍の捕虜となった。初代が最後に見たのは紅蓮の焔に包まれた南原城であっただろう。
又、島津軍と言えば、海戦において日本軍を圧倒した朝鮮救国の英雄李瞬臣将軍の命を最後の海戦で奪った部隊でもある。現在でも韓国では鬼島津と呼ばれている。 
 
つまり、初代は、朝鮮最強の李将軍の下から日本最強の島津将軍の下に従う事になったのだ。 
 
以来、我が家は常に日韓の狭間にいた。時には敬われ、そして時には蔑まれながら。
太刀や戈を陶土に変え、新しい環境に適応しながら、より美しい物を作ろうと努力してきた。
しかし私自身も幾度も「朝鮮人」と呼ばれたし、韓国においては「日本の400年の垢を洗い流せ」といわれた。
何年経っても二つの国の偏狭な自己愛に振り回されてきた訳だ。 
 
そして、20年前、2人の政治リーダーが大きな決意をした。20世紀の事は20世紀の内に解決しようと。
韓国のリーダー、金大中大統領は過去に無かった「和解」を韓国から申し出た。
小渕恵三総理は敢えて要求されていない「謝罪」を述べ、二人は「21世紀パートナーシップ宣言」を発表するに至る。
この宣言は、五つの分野、43の事業に言及しており、大変優れたものである。そしてそれは、二人のリーダーの相互の信頼と力量、意思があったればこそであるのだ。
その証左として、果たしてその宣言はその後のリーダー達に受け継がれているだろうか?残念ながらそうではない。
この20年で相互の貿易額は2・5倍になり、人的交流は3.5倍に増えたが、政治的な繋がりは20年前の方が確かだったと思う。
今や日韓のリーダーシップは過去から蓄積してきた信頼が無く、現在活用可能な配慮が無く、未来を変える意思が無い(沈揆先、前東亜日報編集局長)という、「三無時代」に入っているのでは無いだろうか?  
 
金大中大統領のスピーチを伺う機会があった。
彼は「我々は日本に焼き物の技術を伝えた。そして日本人はその技術を産業へと発展させた。我々はそうではなかった。
我々が日本に学ぶ所はその点である」と話した。当然、韓国メディアに流れることは無かった。
その時私は大統領の左後方に立っていたが、大統領の背広は首の後ろの襟が擦り切れて中から白いワイヤーが見えていた。
あとで儀典課長の河さんにその事を伝えて、何故あんな粗末な服を着せるのかと尋ねたら、彼は「大統領がいつもこれで構わないとおっしゃっておられます」と答えた。
私は胸を打たれたのを憶えている。どちらのリーダーも、思慮深く、誠実だった。
見た目を気にして高いスーツに身を包み、ギャングさながらのいでたちで国際会議に出かけて行く閣僚を見るにつけ、金大中大統領を思い出す。
以前、公明党の冬柴幹事長と話した時に、「金大統領は南の小さな島の出身で、ソウルで学んだ学生時代にお父様が島からやって来たんだ。その時、朝鮮語を話すことが禁じられていた為、日本語を話せない父親と泣きながら抱き合ったそうだよ」と教えて頂いた。
今は、その冬柴先生も亡くなられた。
両国に相手に対する愛情と信頼を持つ政治家が本当に少なくなってきた。そんな状態で、いくら交流を促進しても、政治の中枢が相互に対する深い信頼が無く、うわべだけの交流を、繰り返すだけでは、相手に対するデフォルメされた一方的で誤ったイメージはいつまでも払拭されない。 
 
ヘーゲルが言った「相手に対する配慮を通じた自立を認め合う」時代の来ることを願ってやまない。 
 

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直心直伝「明治に挑む」

2018年7月19日

 
後の14代ロシア皇帝であり、帝政ロシア最後の皇帝となるニコライ2世が世界旅行に出掛けたのは1890年(明治23年)10月、ニコライ23歳の事であった。
当初、イギリスと覇権を競っていた極東に行く事を渋っていたニコライであったが、弟のゲオルギオスが同行する事でその気になったと言われている。豪傑として有名な父アレキサンドル3世と違い大変ナイーブな人物だった様だ。(弟は途中風邪で体調を崩し、帰国してしまう)
 
そして明治24年4月27日ついに日本到着。長崎に到着したニコライ2世一行を出迎えたのは皇室きっての外交通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)だった。国賓として訪れたロシア皇太子の日本滞在を成功させる為、明治政府が選んだ接遇団長である。
そして、10日間に及ぶ長崎滞在を無事に終えた一行は同年5月6日、鹿児島湾に投錨した。
 
鹿児島県知事山内堤雲は、旧薩摩藩主島津忠義にニコライ2世一行の接待を依頼した。豪華なキャスティングである。
当時のニコライ2世の日記には次のように記されている。
 
「御殿に着き、靴を脱ぎ、スリッパを履き、手を洗った。理想的な清潔さである。部屋の中は全て竹で造られている。ごく薄い壁に障子。薩摩公は、私たちの姓名頭字の組み合わせ文字の入った美しい壺(二尺ばかりの薩摩焼花瓶)をゲオルギウスと私に献上してくれた」。
 
これが島津忠義からの最初の薩摩焼の贈り物である。山吹に桜、菊などをあしらった作品であり、これらの作品もまだロシアに現存している。
勿論それ以外にも市中で煙草や古器物、名産器類などを購入している。
 
この時の島津家の接待ぶりは実に古式ゆかしく且つ堂々たるものだった様で、忠義は「犬追物」なる武者行列を披露したし、奥方や家中の女性達も、刺繍入りの紋付姿で礼節を尽くしたという。ニコライは幾度も「ありがとう、ありがとう」と述べたという。更に島津忠義はニコライ2世が退去するに当たり、鉢に咲いていた薔薇の花を折ってニコライ2世に差し出し、ニコライはそれを胸のボタンに差し、再び握手したという。
 
ところで、この島津忠義という方は実は大変に保守的な人物で、亡くなる時までチョンマゲを切らなかったという人だ。
 
一方のニコライは鹿児島を去った後の5月11日、滋賀県の大津で警護していた巡査、津田三蔵によりサーベルで右耳上部に裂傷を負わされるという「大津事件」にみまわれる。その後、帰国してからはそれが原因で頭痛に悩まされた事から徐々に親日家の部分が消え去り、悪感情が芽生え、日本人を「猿」と呼んで憚らなかったという。
 
この保守主義者である島津忠義と、28歳年下で日本人を「猿」と呼んで軽蔑した皇太子ニコライの間の年の離れた親密な交流をどの様に理解したら良いのだろう。
 
ニコライが大津で惨禍にみまわれた事を知った忠義は直ちに上洛しニコライを見舞った。又、ニコライが父アレキサンドル3世の命により、上京を取りやめ帰国する際も、再び見送りに来ている。とりわけ、ニコライは薩摩で見た「犬追物」に強く関心を惹かれたらしく、その事を知った明治天皇が犬追物を題材とした織物をニコライに贈ったといわれる。
更に忠義は1896年(明治28年)5月26日、モスクワのクレムリンで行われたニコライの戴冠式に一対の薩摩焼袋型大壺を贈ったのだ。忠義が亡くなる1年前のことである。
 
遥か遠くの極東の小国、更にその南の果ての地の年上の友人から届けられた薩摩焼史上最高傑作ともいえる1メートルに近い豪華な一対の大壺。正に忠義最期の贈り物である。
私の曽祖父、12代沈壽官は忠義公の命を受け、忠義公の誠意を作品に込めるべく全身全霊で制作に取り組んだ事と思う。今と異なり、電気も温度計も無い時代である。制作が難航を極めたことは言うまでもない。正に、命懸けの仕事であった。
この戴冠式には世界の主要国がモスクワに大物特使を派遣しているが、日本からも伏見宮貞愛親王と特命全権大使山県有朋が出席している。
ただ、多くの贈答品の中でもこの忠義からの最期の贈り物はニコライを喜ばせた様で、その後、サンクト=ペテルブルクの宮殿の玄関に一対で置かれることになる。
 
忠義という人物の徹底した篤実さは、幕末の動乱期を過ごした薩摩藩主としての一貫した生き様であったのだろう。そしてその事が確実にニコライの心を得たのだと思う。
 
私もイタリアや韓国で暮らしたことがある。その中で学んだ事だが、危険な事は、相手の阿吽の呼吸を知らぬまま、安易に相手国仕様に自らを変える事だと思っている。自らの生まれ育ったアイデンティティというものを失わない事と、中途半端に相手のアイデンティティに踏み込まない事が大切だ。そうでないと、相手の目には奇異な人に写ってしまう。
明治に入り、攘夷が文明開化に変わる中、日本中が俄かに欧化していった。髷を切り、洋服に着替え、靴を履き、肉を喰らい、ダンスに興じる。ニコライが「猿」と呼んだのは日本人の矮小な体躯の事ではなく、西洋を必死に真似ようとする当時の日本人の在り様を指していたのかもしれない。
 
忠義はそういう意味で徹底的に上質な薩摩人であり、磨き上げられた薩摩の美意識を貫いた。だからこそ、ニコライに理解されたのである。俄仕立ての国際儀礼など足元にも及ばない、正に日本の心だった。
真の国際人というのは、相手を理解しながら、自らのアイデンティティを失わない人の事を言うのであって、単に外国語が堪能であるとか、海外経験があるとかといった表面的な事などではない。
 
ニコライからも貴重な物が忠義に贈られている。特に白鷲勲章と言うものは、ロシア皇室と深い交流のある者にのみ贈られる栄誉ある勲章である。下世話な話だが、現在オークションに掛けるとなると、スタートが12万ドル(1300万円)からの入札になると言われている程の価値ある勲章である。
 
大津事件、三国干渉、日露戦争と日露の外交関係は複雑化していくが、その中で忠義とニコライの交流が果たした意義は大きく、その外交の重要な道具としての薩摩焼の存在があった。 
 
今年はニコライ2世没後100年であり、島津忠義没後121年となる。
彼等は天に召されたが、大壺はひび割れながらも生き残り、ロシア革命、ニコライの死、日露戦争、スターリン時代を見つめつつそして蘇った。
 
今回、ニコライ2世の戴冠式に贈られた一対の大壺に挑む機会を頂き「明治に挑む」事が出来たことは又とない喜びであった。その中で教えられたことは、幼い頃から教えられてきた「出来る事を一生懸命にやりなさい」という事だけでは殻を破れないという事だった。
「やらされる事」により、新しい境地を知ることもある。何故ならば、人は知らず知らずの内に、出来る事しかやらないからである。
 
出来得るならば、「自分にやらされる」そんな意識を持ちたいものだとしみじみ思う。
 
作品を、眺めながら忠義とニコライ2世の穏やかな笑い声が聞こえてきたような気がした。そして、傍で微笑む12代沈壽官の姿も。

 

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直心直伝「見えない存在の力」

2018年4月6日

昨年末、12月7日、極寒のロシア旧都サンクト=ペテルブルクに向けて成田を飛び立った。世界最大の規模を誇るエルミタージュ美術館を訪ね、12代沈壽官作品と対面する島津忠裕氏に付き添った。
 
今から凡そ10年ほど前の事だが、倉庫で2つの古い大型のボストンバッグを見つけた。鍵は錆びついていたが何とかこじ開けた。
中にはビッシリと和綴じの資料が納められている。内容は粘土の組成、釉薬調合、仕入伝票から大福帳、出勤簿などなどである。試しに1部を取り出してみると、サラサラと粉が降り落ちてくる。紙同士はベッタリと貼り着いており、無理に剥がすと破れてしまうほどだ。
 
思わず身体に痒みが走りそうになり、とっさに焼却処分が脳裏を横切った。
しかし、祖先の供養になるかもとの思いも同時にあり、この和綴じの塊を表具屋で『洗い』と『裏打ち』をお願いすることにした。
ほんの気まぐれである。
費用もかかることなので、ひと月に無理のない範囲で遅々と始めることにした。
 
仕上がってきた文書を清風のエッセイを寄せてくれている深港 恭子専門学芸員に解読して頂く作業が始まった。
その文書の中に絵柄を記した葉書大の紙片が幾枚も入っていて、それを繋ぎ合わせたところ、大きな一枚の下絵図になった。真ん中に見たこともない王冠とアルファベットの紋章。
 
不思議な感じを持ちながら、過ごしていると数日後、ロシアからメールが入った。日露修好150年の記念番組制作のため、エルミタージュ美術館に入っていたテレビ東京のスタッフからである。
エルミタージュ美術館の収蔵庫で不思議な大花瓶を見つけたが、心当たりはないか?との問い合わせだった。
 
そのメールを見て我が目を疑った。
わたしが繋ぎ合わせた下絵図と酷似した紋章がそこにあったのだ。
 
やがて、明治24年にロシア皇太子ニコライが薩摩を訪れ、島津忠義公と深い友情で結ばれた事。その際、多くの薩摩焼を入手した事などを知ることになる。さらに問題の大花瓶はニコライがロシア皇帝になった戴冠式に島津忠義公から送られたものだと判明したのだ。作者は12代沈壽官。
 
エルミタージュ美術館の収蔵庫でひっそりと時を刻んでいた大花瓶はこうして日の目を見ることとなる。
今回の訪露はその花瓶と島津家32代当主の嫡男忠裕氏が出会う機会であった。
 
そして、その作品を今年のニコライ2世没後百年を記念して改めて制作を依頼されたのだ。
不思議な縁だと思う。古文書の発見、解読からいきなり大花瓶の登場だ。何かしら、閉ざされた堰を切るように先祖の思いが流れ込んで来る。こんな事もあるのだ。見えない力に突き動かされているようだった。
 
その作品は5月に島津家仙巌園の御殿で披露される予定だ。絵付け担当の趙さんの死闘が続いている。
 

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