直心直伝 「美山窯元祭り」

2011年12月6日

 この稿が「清風」に掲載される頃には、既に「美山窯元祭り」は開催された後だろう。

 今から二十六年前、私が二十七歳の時だった。イタリアの陶芸学校専攻科に留学中の私の所へ、故郷美山で東市来商工会青年部によって結成された「東市来町の未来を語る会」のメンバーが中心となって「美山窯元祭り」なるものの開催を計画しているという報せが届いた。

一瞬、不思議な感覚だった。何故なら、私達の故郷「美山」は以前「苗代川」と呼ばれていた時代からその朝鮮からの渡来の歴史故に「壺屋の高麗人」などと時折、差別的に呼ばれる事があり、私自身も、疎外されている感覚を持っていた。又、そこに暮らす人々も長年のそんな環境の中で徐々に心根が固くなり、私から見ても、気難しいおじさん達が多かった。

そんな村に、そこ以外で暮らす青年達が入って来て、その地区全体を会場にしてそこの住人達と供に伝統の焼物造りをテーマに地域起こしをする、という。地区の魅力を掘り起こし、美山のファンを増やしたいというのだ。

果たしてそんな事が可能なのだろうか。負い目だと思ってきた自分達の歴史を掘り起こすという事は、再び言われなき偏見をもたらすのでは?と、人々は戸惑った。

当時、青年達は町行政に大きな不満を抱いており、自分の足下にある様々な宝物に、自分達で光をあてるのだと意気込んでいた。いわゆる「ミニ独立国」「パロディ王国」である。当時、鹿児島県下には百二十を超える「ミニ独立国」があり、九十七市町村の数からみても、時として一つの町に二つの「ミニ独立国」があった事になる訳で空前の「パロディ王国」ブームであり、強烈な行政不信であった。東市来は県下で八番目の「ミニ独立国」コケケ王国(コケケとはここにおいでの意)を宣言していた。一方、活性化の対象に選ばれた美山の住人は、村の事情も歴史も、あるいは自分達の背負ってきた様々な悲哀といったものを、理解していない青年達の一時的な熱気で生活空間を踏み荒らされたくはなかった。当然、地元住民と外の青年達の間に静かな反目が起こっていった。

そんな中、翌年、私はイタリアから帰国。先輩の声掛けで、とりあえず「東市来の未来を語る会」の活動に飛び込んでみた。毎夜、八時から開かれる準備会、そこに集まる青年達は、漁師、農家、電気屋、菓子屋、雑貨屋、クリーニング屋、役場職員、郵便局員など実に多種に渡り、毎晩三十名を超える先輩達が深夜まで、私の地元でのイベントに向けての準備に追われていた。そこには、私がこれまで抱いていた疎外感などは無く、純粋に地域の未来を志向する姿があった。

これまで、あまり顧みられる事がなかった私の地元の為に、今、これだけの多くの先輩達が無償で汗を流してくれている、その事実に自分の目を疑った。その先輩達に対して、いつまでも冷ややかな目を向け続ける地元の人々の存在を私自身本当に徐々に申し訳なく思うようになっていった。

地元の親しい先輩と連れ立って集村の有力者の家を訪れる夜を設けた。焼酎を一本下げ、一軒、又一軒、「こんばんは」と、入っていく。「何しに来たか」と、いぶかしむ有力者へ、今準備中の「美山窯元祭り」の話しをする。そして、どうか、特別な力添えは要りませんから。最後まで見守っていて下さい。そうお願いして辞する。そんな夜が幾晩もあった。外部の青年達への反発を和まし両者を少しでも近づけるには、地元の我々青年が繋ぎ役になるべきだと考えたからだ。

 

あれから二十六年、当時黒髪の仲間達の、ある者は禿げ、ある者は白髪になった。一回目、二回目の来場者数は、たったの三十名だった。その様子を見てせせら笑った地元の人も多かったはずだ。ある時は露店商組合の代表に頼んで、祭りの賑やかさを演出する為、たこ焼き屋さんにも来てもらった事もあったが、あまりの暇さにお昼で帰られてしまった。又、自分達でうどん屋を開業した事もあった。しかし、継続の中で徐々に徐々に祭りは成功し始め、確実に集客力を高めていった。

こんな事があった。

行政がいつまでも公式な支援を行ってくれない事に業を煮やした先輩諸氏は遂に強行手段に打って出た。早朝、町長の執務室に侵入し、自分達の用意した支援を約束する文書に勝手に町長名の署名押印をしたのだ。当然、重大な犯罪であり、後にすぐさま露見した。

うなだれる我々の顔を町長がじっと見つめながら尋ねた。「そんなに、やりたいのか。」頷く我々に対して「年に十五万の予算を付ける。但し二度とこの様な事はしないと約束をしなさい。これからも元気に地域の為に頑張りなさい。」我々が跳びあがって喜んだ事は言うまでもない。

翌日、役場庁舎の正面に早速「コケケ王国宮殿」の看板が墨黒々と掲げられ、薩摩焼で作った王冠が町長室に飾られた。ついでに「コケケ王国国王」の名刺も添えて。あまりの早さに町長も目を丸くしていた。

二十六年が過ぎた。

今や、初日から午前十時半過ぎには千四百台収容の駐車場は全て、満車になり、会期中、十万人近い来場者で村は埋まる。そして、延べ四百名を超すボランティアスタッフの中には、当時、小学生だった子供達が今は指揮棒を振り、交通整理や駐車場係を行う。又、地元の各家々からもボランティアが出て来る。役場職員も市長を筆頭に休みを取って協力してくれる。地元の方々も年に一度の祭りを楽しみにしてくれているようだ。すっかりおじさんになったあの頃の青年達も相変わらずやってきてくれる。祭りの準備の為、朝出勤前に六時半から草を払い、駐車場をつくる、又、空き缶拾いや道路清掃を行う。中には祭り終了後、一人自分の車でゴミや看板の取り残し等、最終チェックまでしてくれる人もいる。年を追うごとに練度を増し、内容も豊富になっていった。

 

彼らの運動は、決して一時的な興味や熱気ではなかった。そして、その事は何よりも地元の人々に理解されたと思う。その運動は実を結び、美山に実に大きな転換を与えてくれた。その行動力が行政を引き込んできたのだ。もし、この動きが下地になければ「薩摩焼四百年祭」も絶対出来ていない。

現在、美山には、多くの工房が出来、そこに集う若い彼らは再び美山の新しい魅力を探しつつある。

故郷というのは、そこに生まれ育った人々より、時として外からの視線を持ち、そこで生きる事を選んだ人達によって動かされるものだ。新参の彼らにしてみたら、吹く風も揺れる竹林も全て、当たり前のものでなく、自らの意志で選んだ風景である。その地に生まれた人々にとり、当たり前なものが、他所の者には決して当たり前ではないということなのだ。

考えてみると、私達の先祖ももとは外来者であった。

自らの意志ではなかったが、新天地で生きる覚悟を決めた時から、この地は彼らの新しい土地になった。彼らには何もかもが珍しく見えた事だろう。沈む夕陽も故郷朝鮮のものとは異なったと思う。しかし、その単純な驚きは彼らの日々を生きる上での新しい糧になったのかもしれない。

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直心直伝『白薩摩の土』

2011年9月21日

「白薩摩の土はこの辺りで採れるのですか?」よく耳にする質問だ。それに対して「以前は霧島や指宿で採れるものを使用していましたが、最近では県外のみならず、海外からも入ってきます。もう土が採れなくなってしまったのです」と答えていた。
確かに藩政時代から採取してきた陶土の層は純良なものが採り尽くされ、もはや枯渇したと言われている。鹿児島県の調査でも同様の報告がなされている。
しかし、そのままで良いのか、と自問すると決してそのままで良い訳はない。しかし、新規の鉱脈を県下で探す事は想像を超える難問である。国指定国立公園法の縛りもある。鉱区権の問題、地主との相談、何よりも広大な表土の下の鉱脈をどうやったら発見出来るのだろう。それを思うと、初代達の白土発見の凄さを実感する。言葉も通じない、地理にも不案内な異国で、ボーリング技術も持たない彼らは白陶土を発見し、薩摩焼を世に創出したのだ。
白薩摩原料と一口に言うが、決して一種類ではない。人の体も骨や筋肉や脂肪といったものがある様に、陶土の組成も一つだけではない。数種の性質の異なった原料を配合するのである。それは石の様に固いものから簡単に手で砕けるものまで様々である。
指宿市、山川町、開聞町、笠沙町、霧島町、入来町などいずれも藩政時代より様々な白薩摩原料の産出地としてその名を知られた土地である。しかしながら、この三十年間程、鹿児島県内いずれの陶器工房も土の入手を県外の陶磁器原料屋に発注するようになってしまい、県内のそれら原料産地はもはやその存在すら忘れられようとしていた。それは前述した通り、原料の枯渇に加えて省力化である。
その様な状況の中、今回私が改めて現地調査並びに鉱山主との交渉に入ったのは自前の陶土、しかも鹿児島産の原料のみで造り上げた陶土をやはりどうしても開発しなければならないと思い続けていたからである。
三年前、フランス国立セーブル美術館で開催された「パリ薩摩焼展」に於いてフランス側から提起された「薩摩焼の定義とは?」との問いかけは私達の業界に大きな問題意識を与えた。少なくとも私には非常に重大なテーマとなった。
いつからか、薩摩焼業界は鹿児島県内で生産された焼物を大括りで薩摩焼と総称してきた。しかしそれは、鹿児島県で生まれた黒豚を全て薩摩黒豚と称する様な危険な事だ。それは誤りである。薩摩黒豚とは脚の先、鼻先、尻尾の六箇所が白い、所謂「六白」と言われる種に限定されている。即ち、エリアと遺伝子の両方が存在して初めてブランドとして確立しているのだ。その様な視点で考えると、鹿児島で焼かれたものを全て薩摩焼と呼んでしまう事は、伝統的工芸品も創作陶芸も全て薩摩焼に属してしまう事になる。そのお客様にとっての分かりにくさが伝統産業としての白薩摩製造の衰退に拍車を掛けているのだろう。衰退は後継者の減少と品質の劣化を招く。このまま放置しておけば、おそらく十数年後には白薩摩生産を行う者は消滅してしまうかもしれない。
未来に一筋の光明を見出すには、どうすれば良いのか。その問いの答えとして、ローカルな意匠や製造の精度を増すだけでなく、焼物の原料そのものも地元産にこだわらなければならないという当然の結論に辿り着く。即ちローカルをより上質に磨き上げる事がオンリーワンである事に繋がるのである。

しかし、現実に山に入ってみると、三十年の歳月はあまりにも長く、鉱山の良質な部分は確かに堀尽くされ、更に製土に関する情報や人材も失せていた。断片的な情報が残されているだけで系統立った実践の理論が消えてしまっているのだ。しかし、現地のオーナーに事情を話すと採取に理解を示してくれる所もあった。御好意により、完全に途絶えていたと思っていた製土への可能性がほんのわずかではあるが残されたのだ。それは、笠沙椎の木の陶石と入来町のカオリナイト鉱床であった。少し専門的になるが、陶石とは石英の周囲に長石や粘土質がまとわりついた状態のものであり、陶土の中心的役割を果たす。また、カオリナイトとはアルミナ分を多く含む白色土で成形性を補助し、白色度を高めてくれる役割を果たす。白薩摩焼の製造に不可欠なこの二大要素に可能性が見出せた事は大変意義深く、調査の大きな収穫であった。この細い糸を大切に、大切に紡いでいかなければならない。

焼物は一に土、二に焼、三に細工と言われる。
面白い事に薩摩焼の原料となる様々な白土は必ず温泉の近くに産出するのだ。つまり、原料となる土は、特定の岩石が火山による地熱の影響を数億年規模で受ける事により熱変成したものなのである。我々はその中で硫化帯に汚染されていない純良な部分を選び、砕く。砕くといってもどれくらいの力で何時間砕くのか、大切なポイントになる。更に砕かれたものを水で緩やかに攪拌しながら重い砂を取り除く水簸という作業を繰り返す。細かな粒子を選り分けて沈殿させるのだ。そうして作られた幾つかの異なった性質の微細な泥を配合し、製作に向いた陶土に仕上げていくのである。やがて陶土で作られた物達は一二〇〇℃の高温で固く焼き上げられる。

この様に白陶土の作り方とは実に手のかかるものである。初代達は島津家の志向した白い陶器を創出するため命がけで頑張ったのだ。初代達が献上した白い陶器を見た藩主は「まるで、熊川の様だ」と喜んだ、と伝えられている。熊川とは韓国の地名で昔から焼物作りが盛んな窯業地である。
私達は地球が数億年を掛けて「火山
という窯で石を土に変えてくれたものを、加工し、成形した後、今度は窯という「火山
に入れる事で、再び土を石に戻すのである。陶工の作業とはそういう事だ。

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直心直伝『薩長展』

2011年7月16日

本年、四月二十日、県立歴史資料センター黎明館に於いて、『現代陶芸薩長展in鹿児島』が二週間の会期で開催された。この催しは鹿児島陶芸家協会、萩陶芸家協会両者の主催で開催されたものである。
伊藤鹿児島県知事、森鹿児島市長、野村萩市長ら多くの関係者が居並ぶ中、開会式は行われた。期間中の来場者は三千人弱にのぼり、予想を超える多数の方々の来訪を頂いた。
「薩長」という言葉の響きに胸騒ぎを感じたのであろうか。いずれにせよ、展示会は大成功だった。
萩焼は慶長九年(一六〇四)に藩主毛利輝元の命により、朝鮮人陶工、李勺光(山村家)、李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされる。当初は高麗茶碗をつくり手法も形状もそのものであった。所謂「古萩」と呼ばれる時代である。その後、枝分かれし、様々な作品を生み出していくのであるが、茶道の世界では『一楽二萩三唐津』と言われる程、茶人好みの器を作り続けてきた産地である。
一方、薩摩焼もその創生期に於いて全国共通の評価基準を持つ茶道具の製作を行ってはいるが、萩焼の様に茶道具を全生産品の中心に置いていた訳ではない。

萩焼と薩摩焼、その二つの出身は同じく朝鮮半島である。
それぞれ、毛利家・島津家という異なった領主の支配下に入った同じ技術(朝鮮白磁)を持った朝鮮陶工達は異なった政治体制、経済環境、社会、風土の中でその土地ならではの焼物、即ち「国焼」を創始していった。
出身を同じとする萩焼と薩摩焼、その二つは兄弟と呼んで差し支えないどうしでありながら、四百年の歳月の中でお互いの姿を大きく違えていった。そしてこの事は、九州各地に点在する焼物にも同様の事が言える。何故なら、それらは全て朝鮮半島にルーツを持ち、そして各領主の下で独自の変遷を遂げたものであるからである。
実は、この様な現象は実は大変珍しい事であるのだ。何故なら、これ程多様な焼物が同じ時期に、しかも決して広くはない土地に同時期に、存在している例は他の国には無いのである。多くの国の場合、時代や王朝の変化による焼物の変遷はある。例えば高麗を代表する焼物が青磁であり、李朝が代表する焼物が白磁である様に。
九州・山口で発生したこの様な現象は、各地に於いて独立した自治を持つ領主が存在した事に由来する。つまり、豊臣秀吉の命令により、朝鮮半島へ攻め込んだ西国大名は、それぞれ多くの陶工達を連れ帰り、そして、各々が自らの領地でそれらを保護し、内政に活用した事により一時に流入した、同時にそれぞれの地域に根付いた事によるのである。その結果、世界的にも非常に珍しい光景を創り出したのである。

後年、幕末に於いて萩焼を創始した長州藩と薩摩焼を創始した薩摩藩は、日本の近代化に於いても、実に大きな働きを見せた二大雄藩となる。
日本の近代化は幕末期の薩摩藩主島津斉彬の集成館事業にその端を発する。西欧の脅威に晒される中、諸外国と対等に交易の出来る強く豊かな国をつくるという思想の下、あらゆる産業に挑戦していったのが、集成館事業である。そして、その思想はやがて九州・山口へと広がっていったのである。その近代化の発展形態は世界史的に見ても特異なもので、在地の技術を応用する事で、西洋の先端技術を吸収していくという自国民主導の近代化であった点である。そして、それらは九州・山口から始まったと言っても過言では無いのである。
そのエネルギーの背景にあるのは九州・山口が古くから東アジアや西洋諸国各地との文物・文明の活発な交流を繰り返してきたという点にある。
韓国に於いてはもともと同じであったものが、日本に土着した事でいくつかに枝分かれし、そして近代化という封建制度の崩壊と供にそれまで身に付けた地域性といったものを徐々に脱ぎ捨てていく。
そして今や、両者は、創作陶芸の分野に於いては、産地というものを微塵も感じさせない様になっている。
その事がどうゆう事か、伝統とは何か、創り出すとは何か、もう一度自らに問い掛ける重要な展示会となった。

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直心直伝『エトワール開幕』

2010年12月1日

去る十月四日『CHIN』展は開幕した。
五年に渡る準備期間を経てようやく実現した展示会だ。
五年前、当時の三越本店・前GM大島英仁氏より「五十歳の記念にパリ・エトワール美術館で十五代沈壽官展をやりましょう!」との御提案を頂いた。
その時、私の心に浮かんだのは慶応三年(一八六七)薩摩藩が出展した第二回パリ万博、そして明治三十二年(一九〇〇)の再びのパリ万博であった。
曾祖父十二代が指揮を取り、製作、出品した万博である。

もう一度、パリの空の下に沈家の作品を展示出来る、そう思い「私の個展でなく、沈家の歴代展にして頂けませんか?」と逆にお願いした。
企画案は本社に持ち帰られ協議、了承された。しかし、これは未だ見ぬ苦労の始まりであった。
私のこれまでの視界にある沈家作品の中から代表作を全てパリに集める作業は多くの困難を伴う。
国内外の公立、私立の美術館に館蔵されている作品を始め、個人蔵の作品を借り受ける事は容易ではない。詳しくは記さないが、この五年間、調査の為の旅から始まり、高いハードルを幾つも超えなければならなかった。

物にとって「動く」という事が、如何に危険を伴うものであるか、という事だ。
美術館側は「保存」と「普及」という二つの使命の間で揺れている。
その結果「十五代沈壽官展」という個人の展覧会であれば生じなかった膨大な事務作業と多額の費用を必要とする事となり、その経費は実に一億円に迫る事となった。
これらの費用の捻出に当たり、全国の多くの方々や企業に御協力を頂いている事に、この場を借りて深く御礼を申し上げたい。

パリの中心の丘の上に「凱旋門」は立つ。
高さ五十メートル。ナポレオン一世がローマのコロッセオ脇に立つ「凱旋門」を見て、自ら設計、建設を開始したという。残念ながら彼はその完成を見ずにエジプトでこの世を去ったが、ナポレオン三世の世になりようやく完成。その周囲を守り固める様に十二の館が造られた。それらはナポレオン一世を守護した将軍達になぞらえて、「将軍の館」と呼ばれたのだ。
その一つが現在のエトワール美術館である。片仮名の「コ」の字を開いた様な、四階建てのパレスは三越の手により、パリでも三本の指に数えられるアート・ホールに仕上がっている。

三越本店・現GM内村宏氏の司会でオープニング・レセプションは始まった。
通訳者はなんと現・パリ市副市長夫人であるMrs.カトリーヌ・カドウ。彼女は司馬遼太郎氏の『街道を行く』にも登場する日本通の名物女性である。
「私は日本語の自由な所が好き。何故なら、日本語は基本的にとてもシンプル。そのシンプルな日本語を論理的に組み立てる文法が実に面白いの。その点、フランス語はパリの街と同じ、ガチガチに固められていて変えようがない」と話す。
自由の国の女性から、唐突に日本語と日本の街の方が自由だと言われた私は面喰った。

スピーチは三越の石塚邦夫代表取締役社長、齋藤泰雄在仏日本国特命全権大使、朴興信在仏大韓民国特命全権大使と続き、最後に私の番になった。
Mrs.カトリーヌ・カドウ「何か下書きのペーパーがあるの?無い?OK、その方がいいわ。やりましょう!」笑顔のリラックス・マジックが効いたのか、僕はすっと落ち着いていった。

「サツマ」とは地名であり、様式ではない事、その特徴の事、韓国より日本に至りパリの街で初めて世界に紹介された歴史、そしてこの会場に初代以来四〇〇年の私の先祖達の魂が集まっている事、等々。
三百三十名を超すフランス美術館関係者から強く暖かい拍手を頂いた。

エトワール美術館は諸般の事情により、この企画展を最後に、その幕を降ろす事になっている。
四年近く裏方作業を一人でやり遂げた担当の上野憲一郎氏はクールな男だが「先生、おめでとうございます」そう言った彼の声はしみじみと輝いていた。

振り返ってみれば、本当に数多くの方々の協力と愛情に支えられてきたのだ。

この五年間叶った夢もあるが、叶わなかった夢もある。しかし、どの夢の影にも献身的に尽してくれた人々がいた。その多くの人々の顔を思い浮かべ、そして彼らの願いを乗せてエトワール美術館『CHIN』展という船が二ヶ月余りの航海に旅立ったのだ。

関係者を含む全ての一人一人の方々に感謝したい。そして、最後まで情熱を持って充れた自らの幸運と、それを支えてくれた工房の仲間と家族に感謝したい。

曲がりなりにも、一つの到達点に立てた事は、我家にとっても薩摩焼にとっても大きな節目である事は間違いない。
作品の無事の帰港を待つ。

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直心直伝『青松郡徳川村』

2010年8月6日

『本貫(ほんがん)』という言葉を御存知だろうか。韓国の人々にとってとても大切な言葉だ。これは各々の家のルーツを示す言葉である。
私の「沈」姓は慶尚北道青松郡を本貫としている。従って青松沈氏と呼ばれている。
高麗時代の沈洪孚という人物を始祖とし、その曾孫の沈徳符が、朝鮮王朝開国の功により朝鮮王李成桂より青松の地を賜わった。いわば、最初の出世頭である。この沈洪孚を始祖とする青松沈氏の系譜からはその後、ハングルの父とも呼ばれる世宗大王の妻、昭憲皇后を始め国務総理を九人も輩出している。出世し、王より新たに領地を賜わった人々は各々「派」をつくり枝分かれしていくのだが、全ては元をたどると「青松」にいきつくという訳だ。
先日、この青松を訪ねた。青松訪問は最初ではない。今から二十五年前、新婚旅行の際に初めて訪ねた事がある。当時、既に新婚旅行はハワイかヨーロッパが主流であったが、父の希望で、私達は韓国へと渡った。
大邱駅で待っていたバス一台満員の親戚達は、青松へ向かう二時間余り、遠来の私達の為にと車中で飲み、歌い、躍り続けていた。中国の古典、『東夷伝』によると、「彼の人々は酒を飲み、躍り歌う事が大好きである」と記されていると聞いた事がある。二千年経っても少しも変わっていない。二十五年前の強烈な思い出だ。
今回はその一族の族譜(全国版の家系図)に私の子供達の名を載せる為、長老達にお願いに来たのだ。
この族譜を見ると、日本に渡った最初の人物、つまり我家の沈当吉が、実は青松沈氏十二代にあたる沈讃である事がわかる。讃は文禄の役の際、慶尚南道晋州城で叔父の友仁と共に日本軍と戦い、叔父の友仁はこの戦いで戦死。その後、讃は全羅北道の南原城へと移り、そこで二度目の戦、慶長の役を迎えた。遂に力尽き島津軍に捕えられ鹿児島へと連行される事になるのだが、彼は捕えられた自らを恥じ終生幼名であった「当吉」の名を貫いた事がわかる。
四百年前の事がまるで数十年前の事のように描かれている。実に面白い。私は従って青松沈氏二十六代孫という訳だ。

青松・・・その名の通り青々とした松の群生地(とはいえ韓国どこも比較的そんな景色なのだが・・・)である。
沈氏が集団で生活する徳川村の入口で長老達は待っていてくれた。村で経営する食堂で山の料理を食べさせてくれ、酒を飲み一族の自慢話に花が咲く。こんな会話は各々の一族で同じように行われているのだろう。
翌日の始祖の墓参りの時、一族の長からの言葉は以下である。
一、次に来る時は礼装で来る事。
二、日本の酒を始祖に捧げる事。
始祖に捧げた酒は後で長老達が飲むのだろうが、「かしこまりました」と、深く頭を下げた。

私にとって実際の生活体験のない故郷。そしてそこで初めて出会う親戚や長老との時間は実に不思議な感覚だ。親戚とはいえ、その繋がりは極めて希薄且つ遠い。かといって赤の他人というのでもない。彼らは私の来訪に備えて始祖の墓へ至る参道を掃き清めて待っていてくれる。宿泊も百年以上昔の韓屋(伝統的家屋)を用意してくれる。まさに、親戚付き合いだ。
日本でこの様な事があるだろうか。
我家は日本に渡って既に四百十年を経た。それでも、彼らは私達の事を変わらず親戚だと思ってくれている。私が日本人である事など、何の関係もない。韓国人であろうがなかろうが、青松沈氏の一族である事の方が重要である様だ。
この嘘か本当か分からぬ(こんな事書いたら長老に怒られる)歴史的繋がりが、私に不思議な連帯感と安堵感を与えてくれる。逆に、こういったものを持たない日本社会が空虚にさえ思えてしまう程だ。決して沈一族を頼りにしているという実感はないし、実際頼りにはしていない。ただ、今、自分がここにいる事、そしてここに至るまでの長い旅路の足取りを、俯瞰で見ている事に興奮してしまうのだ。

又、いつの日か私の息子達も、あの峠を越えて青松郡徳川村を訪ねるだろう。その時は、違う長老達が息子達を招き迎えるはずだ。
人口二万七千人の青松郡、私達の隠れた故郷である。

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