直心直伝「『使い手の劣化』と『作り手の劣化』」

2017年2月17日

我が社の轆轤職人に、松井さんという方がいます。彼は私の京都修行時代に一緒だった人で、私の襲名に合わせて京都から駆けつけてくれた大切な人材です。
先日、彼が湯のみをひいていました。「ひく」というのは僕らの世界では、「作る」という意味です。
彼は今から二十年前に茶器の揃いを求めたお客様が、そのうちの一つが破損されたとの事で、その代りを作っていたのです。その一つの為に、ヘラ、ダンゴ、トンボといった道具類を手作りして制作に当たるのです。焼き上がりが同寸、同形、同重量になるように。
そうなのです。私たちの修行時代は自分を機械にする様教えられました。汲み出し碗一日二百個揃って作れないと、そもそも雇ってくれません。訓練所ではとにかくスピードと正確さを求められます。
今はそんな訓練をする若者はほんの数える程です。否、若者ではなく老境に差し掛かる陶芸家でもそんな訓練を経験していない者が大半です。
その結果として、どうなるか?と言いますと、似たような物をつくります。勿論、同寸でもなければ、同重量でもありません。それらを並べて、「お客様、ご自分の手に合ったものをお選び下さい。それが、世界に一つの貴方だけの器です」と話します。
ここに、技術屋の劣化を招くポイントが隠されています。
きちんと修行していない中途半端なモノづくりが逃げ込めるスペースが出来ているのです。
意図的に形を崩したのではなく、技術力の無さから形が崩れてしまっている。
今回、我が家の玄関ポーチを改築しました。様々な優秀な職人さんが集まり、それはそれは壮観でした。大工、石工、瓦屋、建具屋、塗装工、板金屋、皆素晴らしい職人さんでしたが、残念ながら皆な高齢でした。後、十年したら、もう日本建築は不可能になるかも知れないとも言われます。それ程、鍛え込まれた若い技術者が居ないのです。
何故だろう?考えました。最近の若者が悪いのか?彼等が職人仕事を嫌っているのか?厳しい修行に耐えられないのか?と。
しかし、ふと考えてみますと、使い手の側にも責任がありそうです。
いつの間にか私たちは物事の良し悪しを決める際、テレビやSNS、インターネットなど与えられる情報に頼り切ってはいないでしょうか?
島津義弘の時代(十六世紀)の島津家重臣に上井覚兼(うわいかくけん)という方がいらっしゃいました。この方は日向宮崎城主で、彼が残した日記から当時の武将の暮らしぶりが垣間見れます。
彼は剣術、兵法、弓馬術は最も心得ておくべき芸能だと記しています。当時はこれらも芸能だったのです。さらに、書札礼、和歌、連歌、鷹飼、蹴鞠、鵜飼、釣り、狩り、立花、碁、将棋、双六、琵琶、琴、なども武将が心得ておくべき芸能であるとしています。その上で「芸能は一事に秀でるよりも、万事に渡ることが大切である」と説いています。
また薩摩に伝わる「いろは歌」の作者であり、名君の誉れ高い島津忠良(日新公)はそのいろは歌の中の「ち」の歌で、「知恵能は身につきぬれど荷にならず 人はおもんじはづるものなり」と記しています。これは知恵芸能は身につけて荷にもならず、邪魔にならぬものであるから多くのことを習って上手になるべきものである、という大意です。
また、鹿児島の甑島に伝わる古武道で鞍馬養心流の極意は「一目の網は鳥を捕らうるにあたわず されど、鳥を捕らうるは一目の網なり」と断じています。つまり裾野を広く持てという意味で前者と通じます。
今の使い手(消費者)はどうでしょうか?
実はモノの良し悪しを何も知らない、わからないのではないでしょうか?誰かに、何かに判断を頼り切ってはいないでしょうか?
その事が、作り手に逃げ場を与え、モノづくり全体の勢いをそいでいるのではないか?と感じました。
使い手が、あらゆるものに見識を持ち、それを作り手に強く望む事が、世の中に良いものを生み出す最大の原動力になるのです。いい仕事には賞賛を惜しまず、悪い仕事には厳しい評価を下せるようになることが大事なのです。
昔の仕事はいいね。よく聞く言葉です。言い換えれば、昔の消費者はモノを見る目があったという事なのです。
今の行政のお金の出し方は間違えています。モノづくりを支援する為に、モノづくりにお金を入れてしまうのです。そうすると補助金とは麻薬のようなもので、それが無ければ生きていけなくなるのです。そして結果的には何も生まれません。作り手には支援ではなく試練を与えるべきなのです。
どうか、皆さん、色々なものに関心を持ち、ご自分で学んで下さい。皆さんが、最高の消費者になることが最高の作り手を生み出すのです。

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直心直伝「南原春香祭」

2016年10月1日

去る五月、大韓民国全羅北道にある南原(ナムウォン)市を訪問した。皆様、御承知の事とは思うが、この地は四百十八年の昔、豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)の際、我家の日本に於ける初代、沈当吉(沈讃)が島津軍に捕らえられた場所である。初代達が最後に見た光景は紅蓮の炎に包まれた南原城の姿であったろう。小西行長率いる五万八千の日本連合軍第三軍に包囲された南原城は、旧暦八月十五日、落城したと伝えられている。当時、南原城の守備についていた沈讃は奮戦叶わず島津軍の捕虜となった。使命を果たせなかった彼は、その後「讃」の名を捨て、幼名であった「当吉」を名乗る事となる。これが初代沈当吉である。

南原は北に山を背負い、南に開けた平地を持ち、その眼前に河がくねっている。風水の観点からも実に縁起の良い地相となっている。古くから交通の要衝として栄えてきた。

この南原は民族音楽のメッカとしても知られており、韓国の国立国楽団の国内四つの拠点の一つになっている。又、南原市立の国楽団も存在し、国と市の二つの音楽堂が存在し、二つのプロの国楽チームが常駐しているのだ。従って、市民への公開プログラムも多く、高い割合の市民達が韓国伝統の舞踏や歌、楽器の演奏を趣味としている文化都市だ。

その南原市を更に有名にしているのが「春香伝」の存在である。韓国最古のラブストーリーといわれる春香伝は、韓国伝統的歌謡パンソリでも歌われている。粗方のストーリーは以下である。

南原に赴任してきた長官には一人の息子がいた。青年は逞しく賢かった。ある日、青年が屋敷の外を見ていると、ブランコで遊ぶ美しい少女「春香」が居た。彼女は技芸を生業とする女の娘であった。青年は一目で彼女の美しさに魅了され、やがて二人は恋に落ちる。(この辺りが、身分制度の厳格な朝鮮では絶対にありえない事なのだが、これが物語のミソであるから御勘弁。)

しかし、運命はこの二人の愛を引き裂く。長官へ漢陽(現在のソウル)に帰還の命令が下ったのだ。愛し合う二人は涙ながらに別れるのだが、青年は必ず春香を迎えに来る事を約束する。その後、新しく南原に赴任した新長官は、春香の美しさを見るや、自分の妾になる様強要する。生涯の相手と決めた男性がいる春香は、その命令に従わない。業を煮やした新長官は彼女を捕らえ、鞭で打ち牢獄へと監禁する。

その時だ。群集に混じって機会を伺っていたあの青年とその部下たちが、一斉に暴君に襲い掛かり春香を救出し、二人は再会の喜びに打ち震えるというストーリーだ。めでたし、めでたし。(もう少し早く登場してくれたら鞭で打たれる事もなかったかもしれない。)このあり得ない話は、あり得ない故に朝鮮の庶民達に愛された。

その春香を讃えて「春香祭」という大イベントが毎年開催されている。今年で八十六回というから日本統治下で始められた祭りである事が分かる。当時の日本人たちが主導したのか、あるいは庶民達が人知れず始めたものなのかは分からないが、いずれにせよ伝統の祭りと言って良い。そして毎年「ミス春香」が選ばれる。一人ではない、六人である。

眞(じん)、善(そん)、美(み)、貞(じょん)、淑(すく)、賢(ひょん)の六文字を体現していると思われる小顔の韓国美人が選ばれるのだ。不肖小生も今年は、その「ミス春香」のナンバー1の美女との撮影に成功した。(美女と野獣とはこのこと事である。)

私の住む日置市と南原市は、歴史的つながりから現在有効都市の盟約を結び、二年に一回ずつ相互に交流をしている。

出来るだけ多くの価値観に身を寄せる事は大切だ。日本人だけの物差しで物事を見ていては、不充分であろう。私たちは強く日本人でありながら同時に他国の悲しみをわかる人間でなければならないからだ。

皆さんも、是非、南原を訪れて欲しい。智異山からの山菜料理、どじょう鍋、カルビは絶品である。人口十四万のフォークソングとラブストーリーの街「南原」素晴らしい所です。

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直心直伝

2016年4月29日

二十六年前の私です。

資料整理していたら出てきました。

隣の国からアンニョンハセヨ!!

昨年、十二月十一日、韓国での八ヶ月間の修業を終えて帰国致しました。この季節になると毎朝、氷点下迄気温が下がるために、前日造った大壺が、胴体から縦にピリピリと裂けるのです。こうなると工場は、翌年の二月下旬まで冬ごもりとなります。韓国の冬は厳しく、南国鹿児島に育った私には、到底、想像もできないものでした。大河は凍りつき、山々は一面の銀世界です。

私が韓国へ渡ったのは三月。未だ、彼の地の風景は茶色の荒れた景色でした。やがて田に水が入り、稲が植えられ、工場の前に広がる水田が一面の緑の絨毯になった時、ようやく私も現地に慣れて参りました。それから大雨、大風の日々、そして炎天下の夏が過ぎ、金色の稲穂が実り、やがて、韓国の道路脇に刈り入れた米と赤いとうがらしが並び干され、各家庭で近所の人々が集いキムチを漬け込む十一月まで、共に過ごせたのです。今ふり返ってなんと素晴らしい日々だった事でしょう。

仕事は大変辛いものでした。毎朝三時から夕方六時まで渾身の力をふりしぼっての仕事でした。全身に力があふれ、筋はキリキリと痛み、関節はどんどん太くなりました。一日五回の食事でも未だ足らず週一回の風呂に感謝し、炎天下の風を満喫しました。言葉の通じぬ世界で、狂ってしまわぬ様、、本を読み、自分に問いかけ、たどたどしい言葉で友人をつくりました。その中で私の身体の中に、この韓国の人々と同じ東北アジアの大陸の血が流れている事を実感しました。この国には僕よりも、もっと僕らしい人々がが数多くいたからです。日本で暮らし、日本で働くうちに、言葉をもって自分の立場を武装し、その存在を他に立証する必要のない社会に立ち帰って、本当に一人の人間の男性でなく、人間という名の動物の雄の強さを教えられました。そこには、私達日本人がお行儀よく生きていくために、忘れてしまいかけている涙、怒り、笑いがそこかしこに溢れていたのです。

全ての人間にとって、長所とは短所であり、又短所とは長所であると思っています。今、日韓の間にある相互不信の念は、そういった考え方のできない事にも一因がある様に思えました。私をも含めて、心のどこかで韓国のナショナリティを背負って生きていかざるを得ない人々がいて、このファジーな人々こそが、言葉にできない言葉をもっている様な気がします。三百九十年前の祖国。そこには、祖国を見ずに異邦人として生きてきた二代目からの思い込み、つまりは故郷はもはやその人達の心の中にのみ存在する夢の国であった様に思います。国境も、社会も全て、時の流れとともに、人間が互いに影響しあって作り又、変わっていくものです。

今一度、再び韓国を旅したい。そして、もう日本では見られなくなった、本当に屈託のない子供達の笑顔、そして、精悍な青年の肉体と眼光、深いしわを刻んだ優しい老人達の眼差しにふれてみたい。もう一度彼らと、思いきり口論したい。こっそりと一緒にいたずらしてみたい。てれた子供の様な心に会いたいのです。

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思いがけず懐かしい原稿が出てきて、我ながら目を細めて読み返した。今の私の韓国に対する基本がこの時にできていた事を知った。帰国した直後の原稿だから、ホヤホヤだが、愛情に満ちている。あの頃からすると、26年の歳月は随分韓国を変えたように感じる。否、民族というのは、そう容易く変わるものではないとすると、表面的には、ということが。そう言う自分も成長したのだろう。

この原稿からは、当時の私の青年としての気負いと気合いが感じられ少し面映い。ただ、実体の見えない韓国という国と、がっぷり四つに組んだ格闘の残り香はする。

最初の三ヶ月は韓国が嫌いで仕方が無かった。何もかも日本と違う事にとにかく苛立っていた。言葉が通じないジレンマと、例え通じたとしても叶わない壁。これは、イタリアで経験した時と同じだった。

やがて、少しずつ慣れてくると色々な発見や気づきが生まれてくる。誰かに教わったのでは無く、自分の発見は自分なりの韓国観を作ってくれる。いつしか、可笑しさや、愛おしさを感じられる様になるのだ。その国を笑って許せる様になれば、もうしめたものだ。

異なるものと対峙し、相克を乗り越えた時に新しい力が産まれるのだ。従って、戦わない者に力は産まれない。

そんな、感想を持った懐かしい原稿との再会だった。

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直心直伝「三十年」

2016年2月9日

今年は第三十回の国民文化祭が鹿児島で開催された。国民体育大会(国体)は知っているけど、国民文化祭って何?と思われる方は多いと思う。実際、我々も開催が決定してから、その存在を知ったくらいだ。これは文化庁が支援する文化祭で、毎年、各県持ち回りで行っている。殆ど知られていないところを見ると、あまり成果は上がっていない事業なのかも知れないが、それぞれの地域にとっては、やりたくても出来なかった文化事業をやれる絶好の機会となる。

今回、私の所属している鹿児島県陶芸家協会は沖縄の陶芸家達との交流展を指宿市にて企画し臨んだ。

以前「清風」で御紹介した事と思うが、沖縄を代表する「壺屋焼」のルーツは薩摩である。1616年、琉球の尚王家より、島津家に陶工派遣の要請があり、苗代川より三名の朝鮮陶工が南洋の海を越えた。張献巧はその後も琉球に留まり、「仲地麗伸」という琉球名で彼の地に没した。こうした事から薩摩と琉球は焼き物の世界では兄弟、親戚の仲という訳である。(勿論、琉球はその位置から中国の影響も強く受けているのだが)

琉球は江戸時代、政治的には薩摩の植民地としての存在であり、かつ中国に対しても宗主国の礼を取るという二重外交の国であった。つまり、中国と薩摩を繋ぐ重要な立場にあったのだ。従って、中国の文物を乗せた琉球の交易船が定期的に薩摩にやってきていた。その入港の地が山川(現・指宿市)であり、当時の山川港には琉球人の居留区もあったと聞く。又、それにより、山川地区には琉球の歌や踊りが残されており、相互の縁の深さを偲ばせる。そして山川の地は、薩摩焼白土の発見の地でもある。藩主の命を受けた朝鮮陶工達は見知らぬ土地を17年もの間踏査し、ついに指宿・山川の地に白土を発見するに至るのである。島津公大層喜び、朝鮮陶工の長年の苦労に報いるべく、この焼き物に国名を冠して『薩摩焼』と呼んだ。かくして指宿、薩摩焼、沖縄の三つの地が、『紺染(くぞめ)の海』と呼ばれる黒潮の流れに乗って合流したのだ。この交流は藩政時代、営々と続けられ、薩摩藩に莫大な富をもたらした。

沖縄の陶芸家と酒を飲み、語らう事は実に楽しい。彼等は、やはり琉球人であり、同時に強く日本人である。親切で陽気で、その大らかな有り様は別格である。古くは中国、近世に於いては薩摩、日本更にはアメリカと統治された。また、凄惨な地上戦という過去を背負いつつも、荒海を漕ぎ渡り、生き抜いてきた島人の逞しさと明るさを失っていないのだ。それは、彼らの経験してきた過酷な政治環境の中で培われた、小国に生きる者のしたたかさなのだろうか?

今回の交流で沖縄に多くの友人を得た事は、実に有難い事だった。

そして第三十回は国文祭だけでは無い。美山窯元祭りも三十回目であった。思い出すと私が二十六歳の時に始まったイベントであった。当時私はイタリアに留学中であったが、父から長文の手紙を貰い、その中に窯元祭りが始まった事にも触れていた。

心臓の悪い患者がニトログリセリンを服用するようなものでなければ良いのだが、との主旨が書かれてあった。当時の青年達の勢いは、ともすれば苗代川の暗黙の了解や背負ってきた悲しみを知らず、土足で踏み込んで来られたような気がして、一抹の危惧を憶えていたのであろう。今の自分なら良く分かるが、当時の私にしてみれば、あの悲しい歴史を背負った村をそこに暮らしていない青年達が元気にしようと立ち上がってくれたことに、驚きと感動を覚えていた。私が帰国後、まっしぐらにこの運動に飛び込んだのはごく自然であった。仲間外れにされている、と思い込んでいた子供、急に沢山の友達が出来たような気持ち、分かっていただけると思う。

あの頃、三十代の僕は漠然と考えていた。地域が元気になることは、窯を炊くようなものだ、と。登り窯を炊くのは、実はその窯そのものを焼く作業なのである。窯が焼けたとき、中の焼き物はついでに焼き上がるのである。焼き物だけを焼こうとすると炎は炉内をまんべんなく回る事はない。つまり、地域という窯が焼けなければ、我々、そこに暮らす人々も焼き上がらないのだ、と。

地域の為に頑張る事は、自らの為である事に他ならない。それは間違っていないと今も思う。

今では窯元祭りともなれば、千三百台収容の駐車場が午前十一時には満車となる盛況ぶりで、年々その数を増やしている。当時の青年達も今や立派なおじさん、おばさんになっているが、相変わらず祭りの日には揃いのジャンバーを着込み、交通整理や駐車場での料金集めに奔走してくれている。有難い事だ。

かく言う私は「登り窯パン工房」なるものを主催している。米粉百%のみを用いたパンを登り窯で焼き、販売するのだ。お客さん達からは「仕事を変えたのか?」とか「パン壽官だ」とからかわれながら、神村学園高校の未来のパティシエを目指す子供達と一緒に三日間で四千個のパンを焼き上げ完売している。今では祭りの名物になっていると自負している。

企業生命三十年という。我が家もおおよそ一世代約三十年である。私が家を継いだのが三十九歳であったので三十年経つと六十九歳、長男が三十七歳、次男が三十五歳となる。残り十三年、頑張って行けるだろうか自分を励ます日々である。

誠実に労力を尽くす、その事も偽装が蔓延する昨今にあって大切なメッセージであろう。更に、これほど命が軽んじられている現代にあって、焼き物を通じて、生きることの輝きも伝えたい。

まだまだ、頭を使い、気付きを重ねていかなければならない様だ。

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直心直伝

2015年11月11日

7月13日、念願のポルトガルへ旅をした。

理由は、イタリア、スペイン、フランスといった大国の蔭で、目立ちはしないが不思議な存在感を湛えている事にずっと興味をそそられていたからだ。会社に無理を言ってついに10日間の休みをとった。

30年前、イタリアに留学生として滞在していた頃、休みの度に夫婦で僅かなお金を持ち、あちらこちら貧乏旅行をした。西はスペイン迄は行ったが、その向こうのポルトガル迄は行けなかった。

極東の島国に暮らす私にとり、ポルトガルは正に西の果ての国である。以前、名古屋に住む、知り合いの大野さんが、リスボンから絵葉書をくれた。それを読んだらもう、いてもたってもいられなくなってしまった。ついにはポルトガルに対する想いが自分の中で様々な幻想を産んでいった。

夕暮れに、大西洋から流れ込む霧の中で輝く港の街路灯。近くの酒場から聞こえてくるファドの低く悲しい調べ。教会の鐘の響き。古い街並みの坂道の踊り場にある小さな食堂。トマトとガーリックで煮込まれた塩の効いたタコやイカのエキゾチックな香り。脂の乗ったイワシを焼く煙とオリーブ油。人々の喧騒。ポルトガルの冷えたビールとポルトワイン。(何か酒に因んだものばかり)

そして大西洋の水平線。

かつて、遥かなまだ見ぬ陸地を信じて、エンリケがバスコ・ダ・ガマがフランシスコ・ザビエルが船出して行った。彼等は、赤道を越え、南アフリカの喜望峰の大嵐を木の葉の様に乗り越え、インド航路を拓いた。ついにザビエルは鹿児島に入った。種子島には鉄砲が伝わった。更には、大西洋を横断し、南米大陸を発見、あのブラジルを植民地としたのだ。

人口一千万にも満たない小さく、そして偉大な海洋国家、ポルトガル。

ミラノを経由して北部のポルトという街に着いた。街の中心を流れる河を挟んでポルト地区とガル地区に別れる。ポルトガルの国名の語源になった冗談の様な街だ。この景色が世界遺産に指定されている。街並みは清潔で、石造りの建物が並ぶ。窓には洗濯物が掛けられ、暮らしの香りがする。イタリアやフランスほど威圧感が無いのがよい。この街の美術館でポルトガルを代表する彫刻家、アントニオ・ソアレスの作品を見れた。あまり日本では知られていないが、ポルトガルを代表する超素晴らしい彫刻家である。

郊外を走ると、まず気づいたのは樹木だ。ボディに白いペンキで数字を書かれた樫の木。どうやら9年に一度表皮を剥いで、コルクを生産しているとのこと。次の収穫に備えて、剥いだ年を記しているらしい。ポルトガルは世界のコルクの65%を産している大コルク生産国だそうだ。次にユーカリ。これはオーストラリアから持ち込まれたものだが、10年で成長を遂げるらしく、ここではパルプ(紙)の原料となる。最後に松である。松の木の地上1メートルほどの所にぐるりとベルトが巻かれている。そこに木を囲むように幾つかのコップが取り付けられ、上部の樹皮が剥がされている。これは、松ヤニを集めているのだ。接着剤に加工するそうだ。整然と植えられた松林の腰に、ずらりとコップが並んでいる様子は、防風林と言うより、松の畑である。日本の様に鬱蒼とした樹林ではない。全て、人の手が入っている。

土地は赤い粘土質の土と岩石である。痩せている。彼等を大西洋に送り出したのは、この痩せた大地かもしれない。

山には至るところに山火事の後がある。夏になると頻繁に発生するらしい。人為的な場合もあるが、自然発火もある。大西洋から吹き込む風に煽られ、松やユーカリという油分の多い木々は実に良く燃える。

雨は少なく乾燥している。また、夜と昼の寒暖差が大きい。そんな気候を利用して山の傾斜には葡萄とオリーブの畑が広がる。イタリアにいた私も見たことが無いほどのスケールだ。ヘン岩と呼ばれる岩を板状に割り、それを積み上げて延々と山頂まで棚を作っている。果てしない作業だ。到底、数十年で完成する物ではない。日本にも棚田はある。石川県で千枚田と呼ばれるかなりの棚田も見たが、比較にならない巨大な延々たるスケールスケールである。これも世界遺産に指定されている。

急勾配に植えられているため、収穫は全て人力で行う。収穫の季節になると、夥しい季節労働者船で、列車で、車で集められ、朝早くから籠を持ち手摘みをするそうだ。私にも、来ないかと誘いが掛かったが、断った。

良く日本はフローの社会であり、ヨーロッパはストックの社会と言うが正しくそうである。ポルトガルの荘園で働く農民たちは、幾世代にわたり、黙々と働き世界的に類を見ない素晴らしい景観を作り出した。そう言えば、ポルトガルの事を日本では葡萄国と呼んだ。

結婚30年目の旅はポルトガルだった。気候は穏やかで、安全で美しい国だった。

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