直心直伝「地名の由来に思う」

2017年7月27日

今年の鹿児島の梅雨は呆気ない程だった。この原稿を書いている時点(七月五日)で気象庁からの梅雨明け宣言は無い。ただ、私は昔から雨上がりに夏空が拡がり、入道雲が湧き、蝉が一斉に鳴き出した時を私なりの梅雨明け宣言としている。(その後、北部九州を豪雨災害が襲ったが)
本来、私は梅雨入り宣言や梅雨明け宣言、桜の開花宣言などにあまり意味を感じていない。梅雨が明けても雨は降るし、今度は台風が来る。秋の長雨に続いて、冷たい冬が来る。菜種梅雨の後は花散らしの雨が降る。
何のことはない、この国は一年中雨が降っているのだ。
ただ、世の中には誰かに宣言して貰わないと落ち着かない人びとがいることも間違いない。
祖父、十三代は天気を読む名人だったそうだ。身の回りの自然から、読み取る知識と感性はとても貴重だ。自然界の様々な営みの中に多くの学びがある。私ももっと学んでおくべきだったと悔いている。 

さて、『苗代川』。言わずと知れた私の暮らす地区の旧地名である。
昭和三十一年の大合併の時、現在の『美山』という地名に変わったと聞いている。
どうゆう経緯で、『苗代川』から『美山』になったのかは十四代に尋ねても分からないとのことだった。自分達の暮らす村を美しいと表現した客観的な視点は、どうゆう心境からなのか、当然村の総意であるのだから様々な議論や候補があった事とは思う。現在『美山』の地名は定着し、「いい名前ですね」とおっしゃっていただく方も多い。しかしながら、本来は『苗代川』でなければならない。 

我が家を訪ねてくる方の中に、歴史をご存知の方は地図で『苗代川』という川を探す方達がおられる。いくら探しても見つからないという。何処を流れているのですか?と。
確かにそうだろう。何故なら『苗代川』という川は実在しないのだ。 

そもそもの語源は、島津の殿様が梅雨時にこの地を訪ねられた時、折からの大雨に出くわした。すると、道はたちまち冠水し川のような奔流になり、大変難儀をされたそうだ。
その時、殿様が呟いた一言。『苗代時は川のようじゃ』から、苗代川という地名が付いたという。擂り鉢の様な地形で、排水が極めて悪かったことは容易に想像できる。結果、苗代川大洪水なるものも発生したとの言い伝えもある。
又、昔の人は『ナエシロガワ』とは発音せず『ノシロコ』と呼んでいたという。 

このように地名には様々なメッセージがある。 

以前鹿児島を襲った八・六水害。
平成五年八月六日、一週間に渡り降り続いた豪雨は死者七十一人、負傷者百四十二人、床上浸水九千二百棟などの甚大な被害をもたらした。
とりわけ、多くの命を土石流によって奪った土地は『竜ヶ水』という場所だ。竜が駆け下る様に水が落ちる事から、その名が付けられたのだろう。やはり土石流で多くの人命を失ったのが出水市針原である。それ以外にも、垂水市、水俣市と水害の発生する場所には何かしら『水』を連想させる地名が付いている。
(因みに九州北部豪雨の被災地は朝倉市黒川地区であるという)
これが、先人からの土地のDNAを伝える大切なメッセージなのだ。 

従って、町村合併の際の新名は余程考えなければならない重大な事案だったのだ。 

思い起こせば、『北九州市』の名前を初めて聞いたのが小学生の頃だった。大変な人口を誇る大工業都市との触れ込みだった。しかしながら、子供心にも何と無くその名前によそよそしさを感じた事を思い出す。確かに、地理的には九州の北部なのだが、単にそれだけと言うか無機的で、とても事務的な印象を持ったからだ。何故か旅情を感じない。
今では「さいたま市」、「南アルプス市」、鹿児島でも「南九州市」「南さつま市」など全国的に意味不明の地名が随分増えた。議会の中の地域エゴのぶつかり合いの調整の結果だろう。
寂しい発想だと思う。わが町の名前が消える、と言う一見して愛郷心だが、結果的にはみんなで我慢するという事から意味不明の地名を誕生させてしまっている。
何故、その地の歴史、風土、自然、文化を象徴する様な名称を付けられなかったのか、後世にメッセージを込めた地名に出来なかったのか残念でならない。 

しかし、中には、様々な地区名が存在している。それらが醸し出す、その土地の歴史を、思いながら地図を見つめると時を忘れる。
鹿児島の大隅半島の福山という所は黒酢の産地である。甑島で取れたテングサを気温の低い宮崎の都城迄運び、福山から運ばれた黒酢で加水分解して寒天を作り、福山の港から大量に中国に輸出したという。島津家は相変わらずやる事がデカイ。その為に我が村から大量の薩摩焼の酢甕が持ち込まれた。福山の峠は亀割峠と呼ばれている。おそらくは甕割峠だったのだろう。難所を越える際、幾度も黒薩摩の酢甕が割れた事に因んでいるとおもう。酢甕を満載した荷車を引く人夫達の掛け声と汗、割れた甕から零れ出した黒酢の濃厚な香りもしてくる様だ。

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直心直伝『表』と『現』

2017年4月29日

陶家に生を受けた私にとり、薩摩焼を作り、それを販売する。それは極々当たり前のことだった。
       
形も絵柄もほぼ変わらない。十年一日の様なモノづくり。職人の機嫌をとる祖母、会計を預かり常に不安な母、早朝から仕事場に行く父、家を継ぐ事はそのような作業を継承する事なのだろうと漠然と思っていた。
それは、成人し、自分が我が家に入るまでそうであった様に思う。
家業を、継ぐに際しても、決して能動的ではなかった。歴代が踏襲してきた事実に背を向ける勇気が無かっただけのことなのだ。言われるがままの京都での修行を終え、我が家で仕事をしていたある日、母に何気なく言われた。
「私に毎朝トースト載せるお皿を作って」と。単純な依頼に「いいよ」私は軽く答えた。
      
しかし、いざ作る段階になると悩みや迷いが生じる。大切な母のための形は?デザインは?
様々なアイデアを紙に書き連ねていくうちに、ある驚愕の事実に気付いた。
『俺のアイデアは全てパクリだ』ということだ。何処かで見た様な過去の名品のある部分を盗用、ヒットしたデザインのいいとこ取り。自分の線、色が何も無い。
      
モノを作る家に生まれたが故か、モノを作ることが何か、それを販売する事の意味を思い詰めたことが無かった。付け焼き刃で何かを生み出そうとする中で、無意識のうちに手っ取り早くパクリに走っている自分に気付いた。様々な良さげなモノを取り合わせてユニットにして、さも自分のアイデアのように見せる。
      
何かモノを作るときの哲学や基準が欲しい。そうしないと、この家を背負えない。自分が、本当に工房のリーダーになった時、手すりの無い平原を何処に向かって進めば良いのか?その焦りは日々募っていった。やがて、逃げるようにイタリアへ。四百年の歴史が自分を縛っていると思い込もうとしていた。
しかしながら、場所を変えたとて、私自身が急変する訳もなく、デザインを描いては教授にコテンパンにやっつけられる日々だった。
「古い」「力がない」「研究してない」そんな言葉を聞きながら徐々にイタリアに来たことを後悔し始めていた。無為に一年が過ぎたある日、帰国への思いがピークに達した刹那、突如、物故の人間国宝、富本憲吉先生の言葉が頭をかすめた。
それは『模様から模様を作らず』という言葉である。
      
高名な陶芸家の言葉ゆえ、知ってはいたが、その意味を深く考えた事は無かった。しかし、その時は不思議な程、心に入って来た。まさしく『降りて来た』と言える。
既にある模様からは新しい模様は生まれない。何故なら、既にある模様には作者の意思が満ちている。従って、他者が意を用いず、単純、複雑にそれをいじり回したとしても、それは決して新しいモノでは無いという事だ。
世の中には、そうであるものと、そうで無いものが混在している。その中で、使い手は真に意思ある仕事を選ばねばならない。
      
『表現』という言葉がある。いずれも『あらわす』という点では同じであるが『現』は内面的な意思を取り出す事を意味し、『表』はそれらを、技術により他者に視覚化させる意味があると思う。
即ち、『表現』とは、内面の意思を明確にし、技によって人々に見せる行為を指すのである。
私がパクリに走ってしまったのは、意思は持たないが、修行による技術で視覚化させる力だけはあったからなのだろう。
そう考えると、モノを作る工程において最も肝要なものは『意思』であることが分かる。『意思』が無くてもモノは作れるが、そのモノは虚しいモノになる。
中国の論語の中にこんな言葉がある。
『学んで思わざれば 即ち暗く、思うて学ばざれば 即ち危うし』
亡き母がそこまでの、深い洞察を持って、私にトースト皿を命じたのかは定かでは無い。しかし、その依頼は後々に私に多くの事を教えた。
   
残念ながらその皿は母の存命中は完成しなかった。母の没後、その皿は登場する事になる。
店に何も言わずに並べられているが、私にとって格別な一枚である。

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直心直伝「『使い手の劣化』と『作り手の劣化』」

2017年2月17日

我が社の轆轤職人に、松井さんという方がいます。彼は私の京都修行時代に一緒だった人で、私の襲名に合わせて京都から駆けつけてくれた大切な人材です。
先日、彼が湯のみをひいていました。「ひく」というのは僕らの世界では、「作る」という意味です。
彼は今から二十年前に茶器の揃いを求めたお客様が、そのうちの一つが破損されたとの事で、その代りを作っていたのです。その一つの為に、ヘラ、ダンゴ、トンボといった道具類を手作りして制作に当たるのです。焼き上がりが同寸、同形、同重量になるように。
そうなのです。私たちの修行時代は自分を機械にする様教えられました。汲み出し碗一日二百個揃って作れないと、そもそも雇ってくれません。訓練所ではとにかくスピードと正確さを求められます。
今はそんな訓練をする若者はほんの数える程です。否、若者ではなく老境に差し掛かる陶芸家でもそんな訓練を経験していない者が大半です。
その結果として、どうなるか?と言いますと、似たような物をつくります。勿論、同寸でもなければ、同重量でもありません。それらを並べて、「お客様、ご自分の手に合ったものをお選び下さい。それが、世界に一つの貴方だけの器です」と話します。
ここに、技術屋の劣化を招くポイントが隠されています。
きちんと修行していない中途半端なモノづくりが逃げ込めるスペースが出来ているのです。
意図的に形を崩したのではなく、技術力の無さから形が崩れてしまっている。
今回、我が家の玄関ポーチを改築しました。様々な優秀な職人さんが集まり、それはそれは壮観でした。大工、石工、瓦屋、建具屋、塗装工、板金屋、皆素晴らしい職人さんでしたが、残念ながら皆な高齢でした。後、十年したら、もう日本建築は不可能になるかも知れないとも言われます。それ程、鍛え込まれた若い技術者が居ないのです。
何故だろう?考えました。最近の若者が悪いのか?彼等が職人仕事を嫌っているのか?厳しい修行に耐えられないのか?と。
しかし、ふと考えてみますと、使い手の側にも責任がありそうです。
いつの間にか私たちは物事の良し悪しを決める際、テレビやSNS、インターネットなど与えられる情報に頼り切ってはいないでしょうか?
島津義弘の時代(十六世紀)の島津家重臣に上井覚兼(うわいかくけん)という方がいらっしゃいました。この方は日向宮崎城主で、彼が残した日記から当時の武将の暮らしぶりが垣間見れます。
彼は剣術、兵法、弓馬術は最も心得ておくべき芸能だと記しています。当時はこれらも芸能だったのです。さらに、書札礼、和歌、連歌、鷹飼、蹴鞠、鵜飼、釣り、狩り、立花、碁、将棋、双六、琵琶、琴、なども武将が心得ておくべき芸能であるとしています。その上で「芸能は一事に秀でるよりも、万事に渡ることが大切である」と説いています。
また薩摩に伝わる「いろは歌」の作者であり、名君の誉れ高い島津忠良(日新公)はそのいろは歌の中の「ち」の歌で、「知恵能は身につきぬれど荷にならず 人はおもんじはづるものなり」と記しています。これは知恵芸能は身につけて荷にもならず、邪魔にならぬものであるから多くのことを習って上手になるべきものである、という大意です。
また、鹿児島の甑島に伝わる古武道で鞍馬養心流の極意は「一目の網は鳥を捕らうるにあたわず されど、鳥を捕らうるは一目の網なり」と断じています。つまり裾野を広く持てという意味で前者と通じます。
今の使い手(消費者)はどうでしょうか?
実はモノの良し悪しを何も知らない、わからないのではないでしょうか?誰かに、何かに判断を頼り切ってはいないでしょうか?
その事が、作り手に逃げ場を与え、モノづくり全体の勢いをそいでいるのではないか?と感じました。
使い手が、あらゆるものに見識を持ち、それを作り手に強く望む事が、世の中に良いものを生み出す最大の原動力になるのです。いい仕事には賞賛を惜しまず、悪い仕事には厳しい評価を下せるようになることが大事なのです。
昔の仕事はいいね。よく聞く言葉です。言い換えれば、昔の消費者はモノを見る目があったという事なのです。
今の行政のお金の出し方は間違えています。モノづくりを支援する為に、モノづくりにお金を入れてしまうのです。そうすると補助金とは麻薬のようなもので、それが無ければ生きていけなくなるのです。そして結果的には何も生まれません。作り手には支援ではなく試練を与えるべきなのです。
どうか、皆さん、色々なものに関心を持ち、ご自分で学んで下さい。皆さんが、最高の消費者になることが最高の作り手を生み出すのです。

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直心直伝「南原春香祭」

2016年10月1日

去る五月、大韓民国全羅北道にある南原(ナムウォン)市を訪問した。皆様、御承知の事とは思うが、この地は四百十八年の昔、豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)の際、我家の日本に於ける初代、沈当吉(沈讃)が島津軍に捕らえられた場所である。初代達が最後に見た光景は紅蓮の炎に包まれた南原城の姿であったろう。小西行長率いる五万八千の日本連合軍第三軍に包囲された南原城は、旧暦八月十五日、落城したと伝えられている。当時、南原城の守備についていた沈讃は奮戦叶わず島津軍の捕虜となった。使命を果たせなかった彼は、その後「讃」の名を捨て、幼名であった「当吉」を名乗る事となる。これが初代沈当吉である。

南原は北に山を背負い、南に開けた平地を持ち、その眼前に河がくねっている。風水の観点からも実に縁起の良い地相となっている。古くから交通の要衝として栄えてきた。

この南原は民族音楽のメッカとしても知られており、韓国の国立国楽団の国内四つの拠点の一つになっている。又、南原市立の国楽団も存在し、国と市の二つの音楽堂が存在し、二つのプロの国楽チームが常駐しているのだ。従って、市民への公開プログラムも多く、高い割合の市民達が韓国伝統の舞踏や歌、楽器の演奏を趣味としている文化都市だ。

その南原市を更に有名にしているのが「春香伝」の存在である。韓国最古のラブストーリーといわれる春香伝は、韓国伝統的歌謡パンソリでも歌われている。粗方のストーリーは以下である。

南原に赴任してきた長官には一人の息子がいた。青年は逞しく賢かった。ある日、青年が屋敷の外を見ていると、ブランコで遊ぶ美しい少女「春香」が居た。彼女は技芸を生業とする女の娘であった。青年は一目で彼女の美しさに魅了され、やがて二人は恋に落ちる。(この辺りが、身分制度の厳格な朝鮮では絶対にありえない事なのだが、これが物語のミソであるから御勘弁。)

しかし、運命はこの二人の愛を引き裂く。長官へ漢陽(現在のソウル)に帰還の命令が下ったのだ。愛し合う二人は涙ながらに別れるのだが、青年は必ず春香を迎えに来る事を約束する。その後、新しく南原に赴任した新長官は、春香の美しさを見るや、自分の妾になる様強要する。生涯の相手と決めた男性がいる春香は、その命令に従わない。業を煮やした新長官は彼女を捕らえ、鞭で打ち牢獄へと監禁する。

その時だ。群集に混じって機会を伺っていたあの青年とその部下たちが、一斉に暴君に襲い掛かり春香を救出し、二人は再会の喜びに打ち震えるというストーリーだ。めでたし、めでたし。(もう少し早く登場してくれたら鞭で打たれる事もなかったかもしれない。)このあり得ない話は、あり得ない故に朝鮮の庶民達に愛された。

その春香を讃えて「春香祭」という大イベントが毎年開催されている。今年で八十六回というから日本統治下で始められた祭りである事が分かる。当時の日本人たちが主導したのか、あるいは庶民達が人知れず始めたものなのかは分からないが、いずれにせよ伝統の祭りと言って良い。そして毎年「ミス春香」が選ばれる。一人ではない、六人である。

眞(じん)、善(そん)、美(み)、貞(じょん)、淑(すく)、賢(ひょん)の六文字を体現していると思われる小顔の韓国美人が選ばれるのだ。不肖小生も今年は、その「ミス春香」のナンバー1の美女との撮影に成功した。(美女と野獣とはこのこと事である。)

私の住む日置市と南原市は、歴史的つながりから現在有効都市の盟約を結び、二年に一回ずつ相互に交流をしている。

出来るだけ多くの価値観に身を寄せる事は大切だ。日本人だけの物差しで物事を見ていては、不充分であろう。私たちは強く日本人でありながら同時に他国の悲しみをわかる人間でなければならないからだ。

皆さんも、是非、南原を訪れて欲しい。智異山からの山菜料理、どじょう鍋、カルビは絶品である。人口十四万のフォークソングとラブストーリーの街「南原」素晴らしい所です。

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直心直伝

2016年4月29日

二十六年前の私です。

資料整理していたら出てきました。

隣の国からアンニョンハセヨ!!

昨年、十二月十一日、韓国での八ヶ月間の修業を終えて帰国致しました。この季節になると毎朝、氷点下迄気温が下がるために、前日造った大壺が、胴体から縦にピリピリと裂けるのです。こうなると工場は、翌年の二月下旬まで冬ごもりとなります。韓国の冬は厳しく、南国鹿児島に育った私には、到底、想像もできないものでした。大河は凍りつき、山々は一面の銀世界です。

私が韓国へ渡ったのは三月。未だ、彼の地の風景は茶色の荒れた景色でした。やがて田に水が入り、稲が植えられ、工場の前に広がる水田が一面の緑の絨毯になった時、ようやく私も現地に慣れて参りました。それから大雨、大風の日々、そして炎天下の夏が過ぎ、金色の稲穂が実り、やがて、韓国の道路脇に刈り入れた米と赤いとうがらしが並び干され、各家庭で近所の人々が集いキムチを漬け込む十一月まで、共に過ごせたのです。今ふり返ってなんと素晴らしい日々だった事でしょう。

仕事は大変辛いものでした。毎朝三時から夕方六時まで渾身の力をふりしぼっての仕事でした。全身に力があふれ、筋はキリキリと痛み、関節はどんどん太くなりました。一日五回の食事でも未だ足らず週一回の風呂に感謝し、炎天下の風を満喫しました。言葉の通じぬ世界で、狂ってしまわぬ様、、本を読み、自分に問いかけ、たどたどしい言葉で友人をつくりました。その中で私の身体の中に、この韓国の人々と同じ東北アジアの大陸の血が流れている事を実感しました。この国には僕よりも、もっと僕らしい人々がが数多くいたからです。日本で暮らし、日本で働くうちに、言葉をもって自分の立場を武装し、その存在を他に立証する必要のない社会に立ち帰って、本当に一人の人間の男性でなく、人間という名の動物の雄の強さを教えられました。そこには、私達日本人がお行儀よく生きていくために、忘れてしまいかけている涙、怒り、笑いがそこかしこに溢れていたのです。

全ての人間にとって、長所とは短所であり、又短所とは長所であると思っています。今、日韓の間にある相互不信の念は、そういった考え方のできない事にも一因がある様に思えました。私をも含めて、心のどこかで韓国のナショナリティを背負って生きていかざるを得ない人々がいて、このファジーな人々こそが、言葉にできない言葉をもっている様な気がします。三百九十年前の祖国。そこには、祖国を見ずに異邦人として生きてきた二代目からの思い込み、つまりは故郷はもはやその人達の心の中にのみ存在する夢の国であった様に思います。国境も、社会も全て、時の流れとともに、人間が互いに影響しあって作り又、変わっていくものです。

今一度、再び韓国を旅したい。そして、もう日本では見られなくなった、本当に屈託のない子供達の笑顔、そして、精悍な青年の肉体と眼光、深いしわを刻んだ優しい老人達の眼差しにふれてみたい。もう一度彼らと、思いきり口論したい。こっそりと一緒にいたずらしてみたい。てれた子供の様な心に会いたいのです。

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思いがけず懐かしい原稿が出てきて、我ながら目を細めて読み返した。今の私の韓国に対する基本がこの時にできていた事を知った。帰国した直後の原稿だから、ホヤホヤだが、愛情に満ちている。あの頃からすると、26年の歳月は随分韓国を変えたように感じる。否、民族というのは、そう容易く変わるものではないとすると、表面的には、ということが。そう言う自分も成長したのだろう。

この原稿からは、当時の私の青年としての気負いと気合いが感じられ少し面映い。ただ、実体の見えない韓国という国と、がっぷり四つに組んだ格闘の残り香はする。

最初の三ヶ月は韓国が嫌いで仕方が無かった。何もかも日本と違う事にとにかく苛立っていた。言葉が通じないジレンマと、例え通じたとしても叶わない壁。これは、イタリアで経験した時と同じだった。

やがて、少しずつ慣れてくると色々な発見や気づきが生まれてくる。誰かに教わったのでは無く、自分の発見は自分なりの韓国観を作ってくれる。いつしか、可笑しさや、愛おしさを感じられる様になるのだ。その国を笑って許せる様になれば、もうしめたものだ。

異なるものと対峙し、相克を乗り越えた時に新しい力が産まれるのだ。従って、戦わない者に力は産まれない。

そんな、感想を持った懐かしい原稿との再会だった。

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