水森林太郎について

15代日記 | 2008年5月30日

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 大邱を離れるに当たり、是非留めておかなければならない事がある。
 岐阜出身の水森林太郎氏の事である。
 大正時代、日本が朝鮮半島を植民地支配していた頃、岐阜で町長であった水森は大邱に暮らすことになる。
 大邱は盆地で常に旱魃(かんばつ)に悩まされて来た土地である。農民の苦労を見兼ねた水森は資財を投げ打ち、なんと六万二千坪の広大な用水池を建設したのである。
 これにより二度と大邱は旱魃に悩まされる事は無かった、と言われている。
 しかし、時の流れの中で日帝時代の全てが悪夢であるとする歴史観の中、水森林太郎の存在も振り返られる事はなくなってしまった。
 そんな中で、朽ち果てた彼の墓を資財を持って守っている韓国人がいる。
 徐 彰教氏である。彼はただ一人、日本人の墓を守る韓国人として地元の批判と戦っている。
 彼は僕に言う。
 『あの暗黒の日帝時代にあって、細いけれど清流の様な日本人の心があった。韓国人はその事を知らなければならない』と。
 
 水森の墓にはこう刻まれていた。『修水院儒農耕林居士水森林太郎之墓』。
 
 僕は東ソウルの万憂里の丘に眠る浅川巧を思い出した。確かに日本の圧政の中で、清流の様な方々がおられたのだ。米子から駆け付けてくれた佐田山先輩と墓前にぬかづいた。
 
 さて、大邱は美人の産地としても有名である。
 東大邱から乗り込んだKTXの僕の隣に完璧な大邱美人が座っている。指定席だから仕方ない(笑)。
 今日はとても会場が暑く、僕も汗だくである。
 クワガタ虫の様な匂いの日本人のオッサンに隣に座られて彼女も至極迷惑であろう。
 しかし僕も日韓の友好に問題が無ければ…と、息を殺して小さくなっているのだ。

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