講演

15代日記 | 2009年6月2日

 最近、講演の機会が増えてきた。
 以前はごく稀だったのに、最近は何故か増えた。
 僕の話せる事はせいぜい薩摩焼きの歴史、加えて製作の話か、あるいはこれまでの人生の流れを話すぐらいしかない。
 いわば自分の過去を打ち明け、暴露する行為だ。
 しかも、遥かに自分より人生経験豊富な方々に向かって話す事が多いのが厄介だ。
 『お前、しゃべり馴れてるだろうから、緊張なんてしないだろう』と言われるが、とんでもない話だ。
 僕は漫談家や漫才師ではないし、これは『講座』でもない。
 『講演』と云うものを経験しない人には多分解らないと思う。
 何度やっても慣れる事など゛無い。(島田洋七のガバイばぁちゃんはともかく)
 では何故、講演をするのか?と云うと二つの理由からだ。
 一つは自分の会社から『宣伝になりますから断らないで下さい』と頼まれる。
 もう一つは個人的にお世話になっていて断れないからだ。
 講演の前になると、何度経験しても正直言って逃げ出したくなる。
 済んだ後も、あれで良かったのか…、不快な気分になった方もいらしたのでは…、となかなか眠れない。
 胃も痛い。
 悪夢の様な講演があった。
 聴衆が全くの無反応だったのだ。
 きちんと座り、じっとこちらを見つめたままの無反応だ。
 僕がいきなり本題に入ってしまったせいでもある。
 そんな中、焦れば焦る程、自分が底無し沼に沈み落ちていくようだった。
 こんな散々な経験が過去に二度ある。
 講演の前になると必ずよみがえる悪夢だ。
 講演と云うのは当方のコンディションに加えて、聴衆の協力も必要なものだとは思う。
 そうゆう意味では田舎の婦人会が一番良い。
 
 以前、講演の名人と呼ばれる我が父に尋ねた事がある。
 『お父さんは講演でしくじった事はありませんか?』
 すると父は『無い』と答えた。
 彼は聴衆が無反応だと、逆に『何故、みんな俺の言うことが分からないのだ!?』と怒りと共に思うらしい。
 この、俺に付いてこい的自己中発想こそ講演者には必要なのだろう。
 つまりは、言いたい事を自信を持って言う、同時に相手を、聞く雰囲気にしてしまう努力と能力だ。
 これは並大抵のパワーとテクニックではない。
 こうゆう人はそもそもオーラが違う。
 政治家やタレントに見られる光のオーラだ。
 出てきた瞬間に聴衆をつかんでいる。
 僕はこれを『魔法』と呼んでいるが、これが出来るようになると、一流の上に『超』の字が付くのだろう。
 いわゆる『花がある』と云う奴だ。
 『これでもう講演は最後にしよう…』とか『今度で本当に終わりにしよう』等と毎回考えているくせに、済んで暫くすると、又誰かに頼まれて…モゾモゾ…と云う僕には到底無理な事なのか……?。
 まぁ、難しいもので、例え上手くいったとしても『話しが上手い』と言われてしまっては、まるで口舌の徒扱いだ。
 ウソは通用しない。
 講演もブログと同じで、頭の整理にはなるが…。

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