原則

15代日記 | 2009年5月15日

139-1
 海外に出て感じることは 日本人と違う、人々の地に足のついた強さだ。
 伝統と云うべきか、癖と云うべきか…、日本に居ては感じられない個としての成熟と、加えて何か熱の様なものがある。
 韓国に行くと、やはり、強く『生命力のオーラ』を感じる。
 
 韓半島は現在、二つに分断されている。
 超大国の利権の犠牲になった悲劇的な在り方だ。
 過去の日本もその大国の仲間入りを目指し、この国の大地と国民を武力で支配した。
 それはある意味当時の常識でもあったろう。
 
 何故なら、日本はヨーロッパ大航海時代の終焉とクリミア戦争からの新たなヨーロッパ・ナショナリズムの台頭の中で、中国を頂点とするアジア型農耕封建社会が西洋近代化工業社会の破壊力の前に、為す術もなく倒される姿を驚愕しながら見つめたからだ。
 それを、朝鮮より早く知り得たのは薩摩を先頭に行われてきた琉球を介した対明、対清交易による東アジア情報収集網によるものであった。
 従って、日本の南の青年達から発火していったのだ。
 当時、事大主義(大きいに仕える)を取っていた朝鮮王朝は近代化への歩みに於いて、結果的に日本に数歩遅れを取ることになり、彼らのその後の決定的な不幸の要因となっていく。

 但し、日本もあまりにも急変な対応を迫られる中で、日本人の原則とも云える精神文化のDNAすら組み換えざるを得なかった。
 ちょんまげを切りザンギリ頭に、着物を洋服に、下駄を革靴に、あれ程忌み嫌っていた肉を食い始め、攘夷から一転鹿明館でダンスだ。
 その時の日本人が受けたコンプレックスは甚大で、PTSDとなり、後の極端なナショナリズム(自己愛)に繋がったと僕は思っている。
 但し、それすらも余りにも大きな犠牲の結果、無条件降伏と云う結論に至ってしまう。
 その後の復興ぶりを見ても、日本はこれらの激変に耐えられる優れた環境対応型能力、つまりミュータント的能力を秘めているようだ。
 それ故、百四十年もの間、相手の土俵と相手のルールで戦い続け、疲れ果てながらも、遂に黄色人種として世界的国家にはなった。
 しかし、精神文化の骨格を崩してまで対応した代償は、後の原則無き国家の姿となって日本を国際的信頼から、今一つ遠ざけてしまった様に思える。
 昨今、やれ武士道だ、誇りある国作りだ、自虐史観だのと云われるのも、そんな背景からの苛立ちではないか。
 不器用に時代を捉えられなくて、苦しんだ韓国の方が、今は生き生きと見えるのが皮肉だ。

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